【信長史】1580② 秀吉の播磨平定

■関八州・北条家所領安堵

北条氏政
北条氏政

本願寺との和睦交渉が進んでいた頃、関東の北条家との関係も大きな進展がありました。

天正8(1580)年3月、北条氏政・氏直父子は、京の信長のもとへ使者を送ります。 氏政の使者は笠原康明。氏直の使者は間宮綱信。副使として原和泉守。

9日、滝川一益は取次役として、京・本能寺で北条家からの使者を出迎え、笠原は鷹13羽及び馬5頭を献上します。

10日、笠原らは信長に挨拶に出向き、新たに太刀や酒・肴等を献上。織田方の伝奏役は滝川一益と補佐の牧庵が務めます。

この時、織田家と北条家の縁談が持ち上がります。これは信長の娘と北条氏直の婚約をさすものと思われます。信長の娘が幼かったからすぐに結婚に至らなかったのか、理由は不明ですが、結局この話信長の死により消滅してしまいます。余談ですが、氏直は天正11年、家康の娘・督姫を正室として迎えることになります。

信長はこの時、関東八州を北条家が治めることを認めます。これにより事実上、北条家は徳川家同様、織田家の支配下に属したと考えていいと思われます。

信長は「滝川一益に案内させるので、京をゆっくり見物してから安土においでください」と伝言を残し京を出立。

3月13日、信長は、矢部家定を使者とし、北条家の使者に「京での土産物代」として金銀100枚を贈ります。その後、信長は鷹狩りなどを楽しみながら19日に安土に帰国します。

 

 


■安土城下の整備

閏3月10日、顕如が和睦を受け入れた数日後のこの日、前月の小田原の北条氏につづき、宇津宮(栃木県宇都宮市)の宇津宮貞林(宇都宮広綱のことか?)が立川左衛門を使者として馬を献上してきます。信長はこの馬を大変気に入り、返礼にしじら(織物)や毛皮・衣服・黄金などを贈ります。

宇都宮氏は、北条家と対立関係にあり、この頃当主の広綱は病に臥せっている状態で嫡男・国綱はまだ13歳の少年。織田家と北条家の同盟に脅威を感じ、織田家との友好関係を築く目的であったと思われます。広綱は、このわずか5ヵ月後の8月7日に37歳の若さでこの世を去ることになります。

16日、菅谷長頼・堀秀政・長谷川秀一が奉行となり、安土城の南側に掘割を作らせその土で田を埋め立てバテレンに屋敷地としてを与えます。これは現在碑がたっているセミナリヨ跡(神学校:建物の完成は翌天正9年)のことと思われます。

この頃、蒲生賢秀(氏郷の父)の家臣・布施公保が信長の馬廻りに加わり城下に屋敷を賜り、そのほかの馬廻り衆も城下の入り江の埋め立てや船着場建設に従事し、埋め立てた入り江に屋敷地を賜ります。

屋敷地を賜ったのは、稲葉通明(稲葉一鉄の兄)・高山重友(右近)・日根野六郎左衛門・日根野弘継・日根野半左衛門・日根野勘右衛門・日根野五右衛門・水野直盛・中西権兵衛(小姓か馬廻り)・与語勝久・平松十郎・野々村主水・川尻秀隆の13名。
日根野一族が目立ちますが、これは元美濃斎藤氏家臣で天正元年頃から信長に従った弘就の弟らのようです。

4月に入り本願寺の顕如が石山を退去(9日)した前後の話になりますが以下のような出来事があります。

4月1日、有岡城番は矢部家定に代わり村井貞成(貞勝長男)が務めることになります。

11日、越中の神保長住の使者が安土城百々橋(どどばし)付近で信長に馬を献上。

24日、丹羽氏勝(長秀とは無関係の尾張丹羽氏)の家臣が不注意から工事用の大石を信長一行の前に落としてしまい家臣たちは叱責をされ、一人が手打ちにされます。

 

 


■播磨平定

4月、三木城攻略から約三ヶ月、羽柴秀吉が播磨(兵庫県南西部)を完全に平定するべく動き出します。

播磨で抵抗を続けていたのは西部の宇野一族で、落城した三木城の別所氏と共に織田家に抵抗していた勢力でした。

4月24日、秀吉は、黒田官兵衛孝高・荒木平大夫・神子田半左衛門らに播磨西部の宍粟郡にある宇野氏の本拠・長水城の支城の攻略を命じます。
宇野一族が守る林田松山城、常屋城(宇野祐光)、香山城(香山秀明)、篠の丸城(宇野光景)などの支城は短期間で陥落。宇野一族をはじめ、多くの将兵が長水城へ逃げ込んだようです。

秀吉は、長水城包囲を蜂須賀小六正勝に任せると、自らは英賀(阿賀:姫路市)へ軍を進めます。この地域には別所氏や本願寺一向一揆の残党が残っていましたが、ほとんど抵抗もせず船で毛利領内へ逃亡。秀吉は難なく英賀の寺内町を占拠します。

長水城を残し、播磨はほぼ平定され秀吉は、弟の羽柴秀長に但馬の山名氏攻略を命じます。長水城内では、宇野政頼の長男・満景(親織田派?)と次男・祐清(民部)が対立し、この情報は秀吉の知るところとなります。
秀吉は満景派の安積将監を調略。田路五郎左衛門らを内通させることに成功します。

5月9日、田路らは、秀吉軍を城内に手引きし、翌日長水城は炎上し陥落。宇野政頼や祐清(民部)ら一族は、わずかな共を連れ脱出。(『長水軍記』)

6月5日夜、宍粟郡に潜伏していた宇野民部らは、(毛利領へ?)脱出を試みますが、秀吉配下の木下平大夫や蜂須賀正勝の追撃を受け宇野政頼や祐清ら一族を含む将兵数十人が討ち死に。こうして播磨一国は平定されることになります。

6日、秀吉は一気に因幡(鳥取県東部)・伯耆(鳥取県西部)にも攻め込み国境付近の領主はたいした抵抗もせずに降伏を申し出、これを知った信長は「秀吉の大手柄」を喜んだそうです。

 

 


■但馬平定と因幡侵攻

5月、羽柴秀吉の弟・小一郎秀長は、兄の命を受け但馬(兵庫県北部)全土の平定を目指し出陣。秀長は天正5年11月の段階ですでに攻略していた但馬の竹田城(朝来郡)城代として入城し、ここを拠点に山陰方面攻略を任されていました。

この頃、但馬や隣国の因幡(鳥取県東部)は、応仁の乱で西軍の総大将を務めた山名宗全の子孫が守護を務めていました。しかし、但馬家と因幡家に分裂し、実権も家臣が握るというような状態だったようです。

本家筋の但馬家は、山名祐豊が治めており一時祐豊は信長に従っていましたが、天正3(1575)年、毛利方に寝返り信長に抵抗していました。この天正3年は毛利氏と本願寺顕如が密約を交わしており、翌年2月には足利義昭が毛利領に移り住むという時期で、そんな中、山名氏にも反信長派の手が伸びたのかもしれません。

ちなみに分家筋の因幡家を治めていた山名豊国(祐豊の甥)も、一時期信長に従っていましたが、毛利氏の攻撃を受け降伏し従っていました。

天正8(1580)年5月、秀長は、山名祐豊の居城・有子山城(出石郡出石町)を包囲。この戦い最中の21日、祐豊は死去し秀長軍の攻撃により落城。但馬は平定されます。


一方、因幡・鳥取城の山名豊国も羽柴軍(秀吉?)の攻撃を受け籠城しますが、もともと親織田派の豊国は、たいした抵抗もせず降伏を申し出、秀吉は豊国に鳥取居城を許します。しかし、山名家臣・中村春継を筆頭とした家臣の多くは親毛利派だったため、豊国に毛利氏へ味方するよう説得。織田家に人質も送っていたため豊国はこれに応じませんでした。
この後9月21日のことになりますが、豊国は反織田派の家臣団に抗しきれず、10人余りの共を連れ鳥取城から出奔し織田家に服従することになります。

この鳥取城は一時豊国の子・七郎が城主として担がれますが、翌年3月18日、毛利氏から派遣された吉川経家が城主となり、後に「鳥取城渇え殺し」と呼ばれる、籠城戦を展開することになります。

 

 


■安土城下の工事と石清水八幡宮修築

5月3日、安土に織田信忠と信雄が到着。信長から屋敷地を賜り、二人は屋敷の普請に取り掛かります。

5日、安土山(常楽寺で?)で相撲大会が催され織田一門がこれを見物します。

7日、安土城下の掘割や船着場・道路整備などの土木工事が完了し、この奉行を務めていた丹羽長秀と津田信澄(信長の甥)は、信長から休暇を与えられます。

信長は長期にわたる工事に尽力した二人をねぎらうと共になるべく早く帰ってくるよう申し伝えます。信澄は高島(滋賀県高島郡)、長秀は佐和山(彦根市)の領国にそれぞれ戻り休息します。

17日、信長は再び相撲大会を催します。この日は近江国中から多くの力士(具体数は不明)が参加。忍者の里として有名な甲賀地域からは30人の力士が参加します。これを見物したのは信長の馬廻り衆でした。

元蒲生家臣で信長の馬廻り衆となっていた布施公保お抱えの力士は、その活躍により信長から知行地を与えられ召抱えられます。その他にも日野の力士などが活躍し褒美を与えられました。

26日、武田佐吉・林高兵衛・長坂介一が奉行となって前年12月26日から始められていた八幡(京都府八幡市)の石清水八幡宮の修築作業ですが、この日、御神体が仮社殿から新社殿に移し変えられます。この後も工事は続き、完了するのは8月中旬のことになりますが、『信長公記』の著者・太田牛一は、石清水八幡宮の御神体を無事移し終え、「信長の武運長久・織田家の繁栄はますます確実になった」と書き記しています。

 

 


■長宗我部家との関係悪化

6月26日、長宗我部元親が明智光秀を通じ挨拶のしるしとして、鷹16羽と砂糖3000斤を献上してきます。信長は、この砂糖を馬廻り衆に分け与えます。

この時の長宗我部氏からの使者役は不明ですが、この二週間前の6月12日付けで信長は元親の弟で四国・阿波(徳島県)攻略を担当していた香宗我部親泰に書状を送っており、それを読んだ親泰がなんらかの交渉のため上洛したのかもしれません。

信長は天正3(1575)年10月の段階で元親に「四国は思うままにしていい」という趣旨の書状を送ったとされています。元親もこれを機に四国統一を推し進め、天正7(1579)年夏ごろには、三好式部少輔康俊の居城である阿波・岩倉城を攻略し、式部少輔を従属させたようです。

天正8年の段階においても阿波・讃岐地域では三好一族の勢力が長宗我部氏に抵抗を続けていました。その三好氏は長老格の三好康慶(康長)が、すでに信長に臣従しており、親織田派の長宗我部氏と三好氏が対立するという複雑な関係になっていました。

このような状況の中、信長は元親の軍事行動を認めていましたが、この数ヵ月後四国政策は大きく転換されることになり、織田家と長宗我部家の取次役を務めていた明智光秀の立場は苦しい状況になります。