【信長史】1579① 光秀の丹波平定

■山科言継の死

天正7(1579)年、信長46歳。

1月、信長は静かな正月を迎えます。家臣の多くが各地に出陣し、敵と対峙していたためです。

柴田勝家以下前田利家・佐々成政・不破光治・金森長近ら北陸方面の織田軍は、越後の上杉景勝と景虎による家督相続争いの動静をにらみつつ雪深い領国で新年を迎えていたと思われ、羽柴秀吉は播磨、明智光秀は丹波、その他の織田家の有力家臣の多くは摂津の荒木村重及び大坂の石山本願寺包囲に参戦、徳川家康は武田勝頼とにらみ合っている状況で信長への新年の挨拶をできる状況ではありませんでした。

1月5日、そんな状況の中、前年の毛利水軍との海戦で見事な活躍を見せた九鬼嘉隆が堺港から安土の信長のもとへ新年の挨拶に訪れます。

信長は、前年の九鬼嘉隆の活躍に大変満足していて、嘉隆を上機嫌で迎え入れ「今は大坂の情勢も落ち着いておるから故郷の妻子の顔でも見て来るがよい。しかし、なるべく早く戻ってまいれよ」と休暇を与えます。喜んだ嘉隆は急ぎ領国伊勢に向かいます。

8日、信長は小姓衆や馬廻衆らに命じ馬淵(滋賀県近江八幡)から安土に築城のための石材350余を運ばせます。

 

9日、信長は鷹狩りを行い、その獲物を前日働いた小姓衆や馬回衆に褒美として与えます。

2月18日、信長は上洛し、二条新邸に入りますが、東山で鷹狩りをするなどしてすごします。

3月2日、賀茂でも鷹狩りを行いますが、この日、大永7(1527)年から天正4(1576)年の50年に渡り綴られた日記『言継卿記』の著者で知られる公家の山科言継(やましなときつぐ)が死去します。享年73歳。
信長の父・信秀や傅役の平手政秀さらに今川義元ら多くの戦国大名と親交があり、朝廷と信長の交渉役としても活躍した人物でした。

言継は財政能力に長けた人物で、多くの戦国大名から献金を集め朝廷の財政を立て直しますが、その他にも蹴鞠や医学などにも通じ多才な人物だったようです。

 


■摂津再出馬と御館の乱の終結

3月5日、信長は前日に上洛し合流した息子の信忠・信雄・信孝それに弟の信包を率いて摂津・有岡城へ向け再び出陣します。

7日、信長は古池田に本陣を構え、戦況を見つめます。
越後の上杉氏は景勝と景虎が家督争いをしている最中で、加賀の本願寺門徒衆の動きも無いと判断した信長は越前衆の前田利家・佐々成政・金森長近らも摂津に動員し有岡城の荒木村重への圧力を強めます。

しかし、大軍勢を動員しながらも信長は前年の力攻めの失敗を反省したのか一気に城攻めは行わずじっくり包囲戦を展開します。

このような状況の中、越後の上杉家で大きな動きがありました。
前年3月の上杉謙信の死後家督を争っていた二人の養子・景勝と景虎の家督争いに決着が付きます。

3月17日、御館が景勝の攻撃を受け落城。籠城していた景虎はかろうじて脱出に成功し実兄である北条氏政の居城小田原城を目指します。

24日、景虎は途中で鮫ヶ尾城に立ち寄りますが城主・堀尾宗親が叛旗を翻し、観念した景虎は自害して果てます。享年27歳。
これにより約一年に渡る上杉家の内紛は景勝が家督を相続することで終結します。

しかし、御館の乱で疲弊した上杉家は北陸方面の織田軍を攻める余力は無く、信長としては特に危機は感じていなかったようで以後も主力を摂津・播磨方面に駐留させ続けます。

さらに、この間信長はたびたび鷹狩りに出かけ、3月30日には箕雄の滝(大阪府箕面)の見物をするなど戦場にいるとは思えない行動を繰り返します。

 


■森乱丸の登場

4月1日、有岡城を包囲している信長の嫡男・信忠の陣中で事件が起きます。長期対陣の苛立ちからか小姓衆の二十歳前後の佐治新太郎と金森甚七郎が口論し、甚七郎は刺し殺され、勝った新太郎も切腹してしまいます。

8日、信長自身も包囲しているだけで進展の無い状況に退屈になったのか、本陣である古池田の東の野原で“ひとあばれ”します。
小姓衆・馬廻り衆・弓衆を集め、小姓・馬廻り衆を乗馬組、信長自身は弓衆と共に徒歩組というように二手に分け、乗馬組に徒歩組を追い回させます。信長率いる徒歩組はその“攻撃”をかわすといったもので、しばらく楽しんだようです。

このような状況の中、信長は羽柴秀吉の担当する播磨の三木城攻撃の援軍に越前衆と甥の津田信澄(弟・信勝の子)と堀秀政を向かわせます。

12日、さらに信忠や信包などの一族も播磨へ向かわせます。

17日、思いもよらぬ人物が信長のもとを訪れます。常陸(茨城県)の多賀谷重経です。重経は信長に馬を献上し喜ばせます。この多賀谷氏は後に結城氏その後佐竹氏の家臣となり、関ヶ原の合戦の際は、東軍の徳川寄りの佐竹義重の意に反し、西軍の上杉景勝に通じ改易処分になってしまう人物です。ただ主君である佐竹義宣(義重の四男で重経のかつての養子)は西軍・石田三成につこうとしていたので、そのため上杉氏と通じていたと思われます。

18日、信長は森乱丸(蘭丸・長定)を使者に立て塩河(塩川)国満に銀子百枚を贈ります。この時、塩河氏がどのような手柄を立てたのか不明ですが、国満は摂津の武将で、一時は高山右近や中川清秀らと共に荒木村重の謀反に同調しますが、右近らが降伏したのを機に自身も織田家に降っていました。

国満(一説には長満とも)の娘は、信忠の側室になり、信長の嫡孫・秀信を生むことになります。(他説として森可成の娘説、武田信玄娘・松姫説があります)

この日、国満は稲葉貞通らと共に有岡城から打って出てきた荒木勢と戦い撃退しています。

播磨の三木城に援軍として出陣していた信忠も別所軍を撃退し10人ほどを討ち取ったという報告が入ります。

23日、丹波攻め最中である明智光秀からハヤブサのヒナが献上されます。ちなみに15日には馬も献上していますが、こちらは信長から下賜という形で返されていました。

『信長公記』では、この時初めて“森乱丸”が登場します。“蘭丸”という方が馴染み深いですが、信頼できる歴史史料では“蘭”ではなく、すべて“乱”が使われているようです。

 

 

■御着城攻め

4月26日、荒木村重の籠城する有岡城を包囲中の信長は古池田の本陣近くで、再び“ひとあばれ”します。現代の鬼ごっこのようなお遊び?に、この時は、公家で本能寺の変の黒幕説までうわさされる近衛前久と元管領家で信長の妹婿である細川信良(昭元)も乗馬組として参加します。この日の“戦い”は徒歩組が乗馬組を引きずり回し、楽しんだようです。

このような状況の下、播磨の別所長治が籠城する三木城攻めで孤軍奮闘する羽柴秀吉を援護するため織田信忠が出陣します。

信忠は播磨の三木城周辺六ヶ所に砦を築き、その後、黒田官兵衛の主君である小寺政職の御着城(兵庫県姫路市)を攻撃します。ちなみに政職は以後も織田方の攻撃に耐えますが、別所氏の三木城と荒木氏の有岡城が落城すると天正8年に秀吉軍の総攻撃を受け落城します。

28日、信忠軍は野瀬(大阪府豊能郡)に出陣し、農作物をなぎ倒します。
この攻撃は、石山本願寺に流入する食料を封じる狙いがあったのかもしれません。

29日、信忠は、信長に戦況報告を終えるとそのまま岐阜へ帰国します。
同日、越前衆と丹羽長秀は別所方の淡河定範が守る淡河城(神戸市北区)に対する砦を築き、信長への報告を終えると、越前衆は加賀の一向一揆に備えるため帰国します。

丹羽長秀はそのまま有岡城包囲軍に残り、蒲生氏郷や蜂屋頼隆と共に塚口(尼崎市)に陣取ります。その他、有岡城の周辺には細川藤孝・忠興・興元父子、中川清秀や氏家直通・稲葉貞道(一鉄の嫡男)さらに塩河国満や滝川一益・高山重友・池田元助(恒興の嫡男)など多くの武将が加わり、各地に砦や柵・堀などを築き完全に包囲していました。

有岡城包囲はさらに長期にわたることになります。

 

 

■安土城天主閣の完成

 安土城天主
 安土城天主

5月1日、信長は、有岡城攻めの本陣である古池田から京に帰還します。

3日、京での処務を終えると小姓衆だけを伴って安土に帰国します。

11日、信長は、吉日という事で安土山麓の居館から完成した天主閣に移り住みます。天正4年1月に築城を開始してから三年以上の月日が流れていました。

この年、天正9(1581)年7月の話になりますが、盂蘭盆会(うらぼんえ:7月15日)の夜、天主閣と安土城の敷地内に有る總見寺にたくさんの提灯を飾り火を灯し、さらに安土周辺の琵琶湖に提灯を乗せた船を何艘も配置していっせいに点灯させるという、言ってみれば現代のイルミネーション的演出を信長は考案し、その美しい光景を見た家臣・領民らは大いに喜んだそうです。

※写真は「安土城天主 信長の館」内に展示されているスペイン・セビリア万国博覧会に出展された、安土城天主5・6階部分を管理人が撮影・加工したものです。実物は、屋内に展示してあります。

 

 

■安土宗論 ~浄土宗vs法華宗~

5月中旬、安土城下で説法をしていた浄土宗の僧侶・玉念霊誉に対し、法華宗の信者二人(建部紹智と大脇伝介)が論争を挑んできます。しかし、霊誉はその場での論争を避け、二人に対し「これぞと思うお坊様を連れてきたら返答しましょう」と答えます。法華宗側もその気になり、京都・頂妙寺の日珖・常光院・九音院、妙顕寺の大蔵坊、妙国寺の不伝(普伝)という名高い僧が論争に挑む事になります。

この話を知った信長は、自分の家臣にも多くの法華信者がいるという理由で、「論争をしないように」と、双方に使者を送ります。この時、使者になったのは、菅谷長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一。浄土宗側は従おうとしますが、法華宗側は勝つ自信があったため従わずついに宗論が行われる事になります。

5月27日、安土城下の浄土宗の浄厳院で宗論をさせることにし、浄土宗の僧・霊誉と信者それに法華宗の四人の僧を呼び寄せます。

京都・南禅寺の名僧・景秀鉄叟を判定人として招き、“偶然”居合わせた、因果居士も判定人に加わります。この因果居士は、信長の内意を受けていたといわれています。

この宗論を見守るため京からやってきた法華信者は、論争の場に立ち会う事を許されず、許されたのは浄土宗信者のみ。論争の場である浄厳院の周りは警護のためと称して津田信澄(信長の甥)や菅谷長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らの兵3000が取り囲み、完全に法華宗側不利の状況になっていました。

この異様な状況の中、論争は繰り広げられ、両者押し問答の中、法華宗側が言葉に詰まったのを機に浄土宗側が勝利を宣言します。聴衆は法華宗の僧の袈裟を剥ぎ取ります。この状況を知った法華信者たちは一斉に逃げ出しますが、警備に当たっていた織田方の兵に次々と捕らえられます。

決着がついたという報告を受けた信長は浄厳院へ出向き、法華信者の大脇伝介と師である僧の不伝(普伝)を強く非難し、その場で処刑します。

論争のきっかけを作った建部紹智は堺まで逃げ延びますが、後に捕らえられ処刑されます。

信長は捕らえた法華信者に対し「全員打ち首」にすると脅す一方で、「もしそれがいやならば負けを認め以後他宗に対して誹謗しない旨誓約書を出す」よう命じます。法華宗側は、仕方なく信長に対して誓約書を提出します。

法華宗は、京の町衆の中に多くの信者がおり、本願寺の一向一揆や延暦寺など、宗教勢力に苦しめられていた信長は、法華宗の勢力拡大を危惧していました。この論争は法華宗勢力を弱体化させる絶好の機会となりました。

 

 

■明智光秀、丹波平定

6月、明智光秀軍に包囲されてから半年になる波多野兄弟が籠城する丹波・八上城内で変化が現れます。兵糧も尽き、餓死者が出はじめ城兵は草木や牛馬を食べるような状況になっていました。中にはフラフラの状態で城外へ打って出てくる兵もいましたが、ことごとく明智軍に討ち取られる有様でした。

6月1日、そのような状況で、光秀は城内に調略も仕掛けていました。
限界に達した波多野家臣は、城内で反乱を起こし波多野三兄弟(秀治・秀尚・秀香)を捕らえ光秀に引き渡し、これにより八上城は陥落します。

4日、(6日とも)波多野兄弟は洛中を引回された後、安土へ護送されます。
信長は安土城下の慈恩寺の町外れで三兄弟を磔にし処刑します。

八上城に入った光秀は、配下の兵に一時の休息を与えると丹波平定の総仕上げに動き出します。

7月19日、宇津頼重の立て籠もる丹波・宇津城へ進撃。明智軍の総攻撃に頼重は城を捨てて逃げ出しますが捕らえられ処刑されます。光秀は一気に近くの鬼箇城も攻め近隣を焼き払います。

8月9日、明智軍は赤井忠家?(『信長公記』では既に死んでいる直正となっています)の立て籠もる黒井城にも攻め寄せます。城兵は果敢に城外に打って出てきますが、かなわぬと見るやすぐさま城内に逃げ戻ります。しかし、明智軍の追撃により十数人が討ち死。赤井氏は、丹波の大半が織田方の手に落ちた状況に観念し、諸条件をつけながらも光秀に降伏します。ちなみに赤井氏は江戸期には徳川旗本や藤堂氏の重臣となっています。

光秀が丹波に攻め入ってから約4年。ついに丹波平定は成し遂げられ、報告を受けた信長は「長期にわたり在陣し数々の戦果を挙げたのは比類なき功績」と褒め称え感状を贈ります。

 

尚、この八上城攻略の際、光秀は自分の母を人質に差し出し、波多野兄弟に降伏を勧めますが、波多野兄弟が信長に殺されたため光秀の母も報復で殺害され、その恨みから本能寺の変を引き起こしたという話があります。しかし、これは江戸時代の人たちが現代と同じように本能寺の変の動機を推測したもので、信頼できる資料にはこの事実は記載されていないようです。