【信長史】1577② 手取川の合戦

■信長と近衛前久

天正5(1577)年閏7月6日、信長は完成したばかりの二条新邸に入ります。この二条新邸は、足利義昭のために築城した二条城や現在も残る徳川家康の二条城とは別の建物で「二条御新造(二条殿)」とも呼ばれています。天正4(1576)年、安土城の築城と同じ時期に村井貞勝が普請奉行になり関白二条晴良邸跡に建てられた建物です。後の本能寺の変で信長の嫡男・信忠が立て籠もったがこの二条新邸になります。

 

この二条新邸は壮麗な建物だったようで、二年後には正親町天皇の皇子・誠仁親王に献上されることになりますが、それまでは信長の京での宿所として使われ、内部構造の秘密を守るため信長以外の宿泊を禁じたそうです。


天正5(1577)年閏7月12日、前関白の近衛前久(このえさきひさ)が息子・信基(後の信尹:のぶただ)をこの二条新邸で元服させたいと申し入れてきます。しかし、公家衆は、昔から宮中で儀式を執り行う慣例になっていたので、信長は再三辞退します。しかし、前久の度重なる申し入れにやむなく承諾し元服の儀を執り行うことにします。儀式には摂家・清華家の他にも近隣諸国の大名等も参加し、盛大なものになったようです。
前久としては、この元服により信長とのつながりをさらに強めたい、そんな狙いがあったのかもしれません。


近衛前久は天文5(1536)年生まれなので、この時42歳。信長は44歳という関係になります。近衛家は五摂家の筆頭の公家で本姓は藤原氏で藤原北家の嫡流という名門でした。そのため前久は、6歳で公卿に列せられると12歳で内大臣、18歳で右大臣、19歳で関白左大臣とトントン拍子で昇進していきます。そして公家としては珍しく行動力旺盛な人物でした。信長上洛前には、長尾景虎(後の上杉謙信)と密接に係わり、わざわざ関東に訪れ景虎を助けたりしていました。


永禄11(1568)年、信長が上洛すると、大坂の石山本願寺を頼り京から逃げ出します。前久は三好三人衆と親密にかかわっており、三好は足利義昭の実兄・義輝を殺害していたため、義昭が将軍となったため何らかの処罰があるのではないかと考え逃亡したようです。以後、丹波にも潜伏。反信長勢力と連携してして一時活躍していたようです。

 

天正3(1575)年、信長の奏上により京へ戻ることになります。政治手腕はなかなかのものだったようで、信長が前久は利用価値がある人物と考えたのかもしれません。

 

京に復帰後は、信長と親交を深め、信長の指示か前久独自の思惑かわかりませんが反足利義昭派を築こうと、九州まで下向し薩摩・島津氏や日向・伊東氏・肥後・相良氏などの和睦調停を行うなど織田政権に貢献します。

 

しかし、その公家とは思えない積極的な行動力により近衛前久・本能寺の変の黒幕説も存在します。

 

 

■勝家の加賀出陣と秀吉の戦線離脱

天正5(1577)年閏7月、上杉謙信が能登七尾城攻略のため出陣します。七尾城は代々守護の畠山氏の居城となっていましたが、この頃には城主不在ともいえる状況になっており、実権を握っていたのが、親織田派の長氏と親上杉派の遊佐氏でした。謙信の出陣を受け、長綱連は信長に援助を要請します。


織田家と上杉家は長年友好関係を保ってきましたが、武田家の衰退と信長の勢力拡大により、徐々に関係は悪化していました。危機感を抱いた謙信は天正4(1576)年5月、それまで敵対していた加賀門徒と和睦していました。


能登が謙信の勢力下になると北陸方面の平定が非常に困難なものになることは必定。信長はついに謙信との戦いを決意します。


8月8日、柴田勝家を総大将として、まず加賀に出陣。一向一揆衆を相手にしなければなりませんでした。
この時、勝家の配下には滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・斉藤新五・氏家直通・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政・金森長近など織田家のそうそうたる家臣が従っていました。兵の数は3万ほど。


加賀に入った織田軍は苦戦しながらも、添川(九頭竜川)・手取川(大聖寺川)を越え、一向一揆衆の砦などを攻略します。しかし、ここで織田陣中で大事件が発生します。勝家と秀吉の意見が衝突。不満を抱いた秀吉は配下の兵を引き連れ無断で所領に引き上げてしまいます。


完全な軍令違反。これを知った信長は激怒。『信長公記』には「秀吉は進退に窮した」と書かれています。秀吉としては切腹覚悟の戦線離脱だったと思いますが、その理由はなんだったのかは分かっていません。


どんな理由であれ軍令違反は重罪です。しかし、秀吉は「上様(信長)は自分を殺しはしない」という自信があったように思います。結果としては、信長はこの直後、謀反を起こした松永久秀の討伐に秀吉を参加させ事実上、軍令違反を不問に処しています。

 

 

■手取川の合戦

 上杉謙信
 上杉謙信

8月9日、上杉謙信は一向一揆方の加賀・御幸塚城の七里頼周に宛て、必ず援軍に向かう旨の書状を送ります。


17日、謙信に呼応するように松永久秀・久通父子が、石山本願寺包囲のために任されていた天王寺砦を引き払い所領の大和・信貴山城(奈良・生駒郡)に立て籠もります。


9月、能登・七尾城を取り囲んだ謙信ですが、城は峻険な地にあり、その攻略に手間取ります。一方の織田軍も加賀の一向一揆勢相手に苦戦を強いられ思うように進軍できずにいました。それと共に敵勢力下での軍事行動であり、上杉軍の正確な情報が得られないため、秀吉の戦線離脱に見られるように織田陣中では、意見がなかなかまとまらない状況だったようです。


15日、事態は急変します。七尾城内で親上杉派の遊佐続光が温井景隆らと共謀し、親織田派の長一族を女子供にいたるまで殺害してしまいます。これにより七尾城は謙信の手に落ちることになります。七尾城を攻略した謙信は、後顧の憂いが無くなりいよいよ加賀救援のため南下を始めます。


23日、手取川付近で織田軍と上杉軍はついに遭遇します。

ここで史実では上杉軍が退却する織田軍に猛攻を加え、織田軍は討ち取られる者、川に流され死ぬ者がが続出し惨敗を喫したとされています。


しかし、この戦いについては『信長公記』によると、「織田軍は加賀方面で農作物をなぎ倒し、(七里頼周の守る御幸塚城付近に?)に砦を築き佐久間盛政(勝家の甥)を配置し、さらに大聖寺にも砦を築き10月3日に撤退」と書かれているだけで、さらに他の良質な史料にも記されていません。ちなみに本願寺方の史料にも書かれていないようです。


上杉軍の大勝利の記述があるのは、良質な史料とされる『歴代古安』に収録されている謙信の書状と創作が多いとされる俗書『北越軍記』のみ。
謙信はこの書状によると、信長自身が出陣していると思い込んでおり、「七尾城の陥落を織田軍は知らず、信長は謙信自身が出馬してきたと聞いて(恐れをなして?)、9月23日夜・敗走し、(上杉軍は織田の兵)千人討ち取り、その他の織田兵は大雨で氾濫した手取川に流され多くが死んだ」というような記述をしています。


後世「上杉に逢(お)うては織田も名取川(手取川)、はねる謙信逃(にぐ)るとぶ長(信長)」と歌われた、上杉謙信と織田軍の最初で最後の戦いは、織田軍の負け戦ではありましたが、実は謙信が書いたような戦いではなく、単なる小競り合い程度だったのかもしれません。

 

 

■松永久秀の離反と人質の処刑

8月17日、松永久秀・久通父子が、石山本願寺包囲のために任されていた天王寺砦を引き払い所領の大和・信貴山城(奈良・生駒郡)に立て籠もります。


この一ヶ月前には、前述のように上杉謙信が七尾城攻略のために出陣していて、これに対抗するため、8月9日に柴田勝家が織田家の主力を率い加賀へ向け出陣した直後でもあり、久秀は、謙信や本願寺勢と連絡を取り合っての行動だったと推測されます。

松永父子の離反を知った信長は、早速、松井友閑を使者として久秀の元へ派遣し、謀反の理由を問いただします。信長は「思うところを申せば、望みをかなえてやろう」という考えでした。しかし、久秀は説得に応じようとはせず、出頭することはありませんでした。

信長は翻意しない久秀への見せしめとして、人質となっていた久秀の12歳と13歳の孫(息子という説もあり)の処刑を命じます。その任に当たったのは、矢部家定と福富秀勝。場所は京にて執り行われます。

京にて、処刑のため、その二人の子を預かっていた村井貞勝は、不憫に思い「宮中に駆け込み、助命嘆願しなさい」そのために「髪を整え、衣服も着替え、いつでも出られるよう」言い聞かせます。しかし、二人の子は、「身なりの事はごもっともですが、けっして助命はしてくれないでしょう」と覚悟を決めていました。

その覚悟を知った貞勝は「親兄弟に手紙を書きなさい」と勧めます。
子供たちは「この期に及んで親への手紙は無用」として、その代わり人質の間、世話をしてくれた佐久間盛明に宛て「今までご親切にしていただき誠に有難うございます」と書き送ります。

結局、二人の子供は京・六条河原で処刑されることになりますが、二人は顔色を変えることもなく、武士の子らしく落ち着き、手を合わせ念仏を唱えその短い生涯を閉じます。その光景を見聞きしたした人々は涙を止められなかったそうです。

 


■松永久秀の死

9月27日、織田信忠を総大将とした松永討伐軍が岐阜を出立。松永久秀・久通父子が謀反を起こしてから一ヶ月余りも経っていて、電光石火の攻撃を得意とする信長としてはかなりの時間を費やしています。何とか久秀を説得したい、殺したくない、そんな気持ちだったのかもしれません。

信忠が出陣したのは、上杉謙信手取川の合戦で織田軍を撃破したとされる日から四日後。北陸方面の情勢を確認したうえでの出陣だったかもしれません。結局、謙信はそれ以上西に進むことはなく、越後に引き上げてしまいます。旧暦の9月下旬は現代の11月中旬。越後では間もなく初雪が降る、そんな季節だったので、もしかしたら信長は謙信が退くこの機会を伺っていたのかもしれません。信忠の軍は結局10月1日まで安土に留まることになります。

10月1日、松永久秀の家臣・森秀光と海老名勝正が立て籠もる大和(奈良県)の片岡城(王寺町)に先陣として明智光秀・細川藤孝・筒井順慶それに山城衆が攻めかかります。

 

この戦いで一番に攻め込んだのは藤孝の子・細川忠興(15歳)と興元(13歳)兄弟でした。天守からは鉄砲・弓矢を撃ちかけてきますが、矢玉が尽き、刀での切り合いになります。そんな大乱戦の中、細川配下の家臣も30人余り、明智配下が20人余り討ち取られますが、忠興・興元兄弟の活躍もあり、片岡城兵150人余りを討ち取り織田軍は勝利します。この細川兄弟の活躍に信長は感状を授与したそうです。


同日、安土に留まっていた松永討伐軍の総大将・織田信忠は、上杉謙信の退却を確認し、いよいよ松永久秀の籠城する大和・信貴山城へ向け兵を動かします。

3日、信貴山城下に迫った信忠軍は、城下町を焼き払い陣を構えます。ここで再び織田軍は久秀に降伏するよう勧めます。
信忠は信長から指示されていたのか、久秀が所有している名物『平蜘蛛釜』を差し出せば命は助けるという条件を出します。名物を度々献上して信長に許されていた久秀でしたが、この時は首を縦に振りませんでした。

10日夕刻、信忠は説得をあきらめ全軍に信貴山城の総攻撃を命じます。
佐久間信盛・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀らが一斉に城へ攻め寄せます。

 

松永軍も必至の反撃を試みますが、多勢に無勢。矢玉も尽き、いよいよ落城の時が迫ります。命運の尽きたことを悟った久秀は、平蜘蛛釜に火薬を詰め、それに火を放ち爆死します。享年68歳だったといわれ、信長の欲した平蜘蛛をあの世に持っていくことで戦国の梟雄といわれた男、最後の意地を見せつけました。

『信長公記』には、「天守に火を放ち、焼死した」と記されるのみで、他の説では、「平蜘蛛釜を叩き割り、火を放ち自害した」というようにも伝わっています。

さらに、久秀の死んだ10月10日は、ちょうど10年前(永禄10年)に奈良の大仏殿を久秀が焼き討ちした日にあたり、『信長公記』の著者・太田牛一はその因果が現れたといっています。当時から奈良といえば鹿だったのでか不明ですが、総大将を務めた信忠は、この時鹿の角の前立て(兜の前飾り)の兜をつけ戦いに挑んだそうです。

12日、朝廷への戦勝報告のため信忠は上洛。久秀討伐の功績により、信忠は三位中将に任命されます。三位中将は近衛府の次官であり、通常は四位ですが、この時信忠は三位とされ上級の中将に任官したことになります。

15日、安土の信長にも直接報告をした信忠は17日岐阜へ帰国。総大将として見事大役を果たしました。