■織田信勝の死

■弟・信勝謀殺

弘治3(1557)年、信長24歳。

弟・信勝(信行)が再び謀反を企てます。尾張上郡の岩倉城主・織田信安(織田の本家と考えられている)と共謀して信長の直轄領を奪おうと考えます。合戦に備え、竜泉寺という寺を城郭のように改築します。


しかし、信勝が謀反を企てる中、信勝派内部では亀裂が生じていました。この頃、信勝は津々木蔵人という者がお気に入りで優遇していました。信勝方の有力な家臣はみなこの津々木の配下に付けられ、津々木は有頂天になり、信勝の重臣・柴田勝家をないがしろにします。津々木の態度とこの津々木を優遇する信勝に不満を抱いた勝家は、信長に味方する決意を固め、信勝が謀反を企んでいることを密告します。


これを聞いた信長は、かつて美濃の斎藤義龍が弟二人を殺害した時と同じ策を用い、病気のふりをして一切外出しなくなります。信長が長期にわたり寝たきりの状態であるため、病気と信じ込んだ母・土田御前は、勝家と共に信勝に清洲へ見舞いに行くことを進めます。


11月2日、信勝は母の勧めを受け入れ清洲城を訪れます。清洲城の北櫓・天守次の間に通された信勝が信長との対面を待っていると、信長の命を受けた河尻某と青貝某の二人が信勝に斬りかかり殺害します。享年20歳前後。これによりついに兄弟対決に終止符が打たれ、以後柴田勝家は信長が死ぬまで信長に忠節を尽くすことになります。

 

この年、信長の側室(生駒家宗の娘)が、嫡男・奇妙丸(のちの信忠)を生みます。

そして京では10月27日に正親町天皇が践祚(せんそ:天皇の地位を継ぐ)します。先帝・後奈良天皇の葬儀は資金難のため、11月22日ようやく執り行うことが出来ます。この費用を請け負ったのは三好長慶でした。