【信長史】1575② 信忠の家督相続

■信忠の岩村城攻め

天正3(1575)年、5月、長篠・設楽原で武田軍を撃破した信長は、美濃から武田の勢力を一掃するため嫡男・信忠に岩村城の攻略を命じます。この岩村城は、元亀3(1572)年11月、武田信玄が三方ヶ原に進出してきた際、秋山虎繁(信友)率いる別働隊が攻略した城で、その後、武田方の城となっており岐阜城に近いこともあり信長を悩ませる存在でした。

 

岩村城攻めの総大将に任命された信忠は、2万の軍勢を率い水精山(水晶山)に本陣を構え岩村城を包囲します。岩村城を守るのは秋山虎繁(信友)。そして、その妻は信長の叔母にあたる元遠山景任夫人・おつやの方。


武田軍が美濃に侵攻した際、遠山景任が病死(合戦の怪我が原因で死んだとも)すると信長は自身の五男(四男とも)御坊丸(後の勝長。源三郎信房)を遠山氏の養子として送りますが当時推定3・4歳。そこで信長の叔母・おつやの方は女城主として岩村城を守ります。しかし、信長の援軍が得られぬまま戦況は苦しくなります。

 

そんな時、やはり城攻めにてこずっていた秋山虎繁は結婚を条件に和議を申し入れるという奇策を打ち出します。この婚姻の仲介をしたのは織田掃部助(忠寛。一安とも)。これ以上、籠城を続けることは不可能と悟ったおつやの方はこれを承諾します。このとき秋山虎繁は御坊丸を人質として信玄のもとに送ってしまいます。信長の怒りは、相当なものだったと考えられます。


このような経緯のある岩村城の攻略を命じられた信忠ですが、標高721mという日本で一番高いところにある山城に苦戦を強いられます。大きな成果が得られないまま包囲は長期にわたることになります。 

 

 

■織田家重臣の官位受領

6月26日、信長は、共にわずか5~6人の小姓だけを従え京に向かい、この日は佐和山で休息後、船で坂本に向かいます。

 

27日、相国寺に宿泊。このときの上洛は、東宮(正親町天皇の皇太子・誠仁親王)の蹴鞠の会を見物するためでした。


7月1日、相国寺の信長のもとに公家衆や近隣諸国の大名らが続々と挨拶に訪れます。訪れた主な大名・武将は播磨の別所長治・重宗、阿波の三好康長(笑厳)・若狭の武田元明・逸見昌経・粟屋勝久・熊谷直之・山縣下野守・内藤筑前など。塩河伯耆守長満(娘は織田信忠室?)は馬を拝領したようです。


7月3日、清涼殿の庭で蹴鞠の会が催されます。蹴鞠を行ったのは飛鳥井大納言・中将、三条大納言・勧修寺大納言・烏丸光宣ら公家衆。信長は馬廻衆らとこれを見物。

 

その後、参内した信長は天皇から杯を賜ります。この蹴鞠の会は信長を呼び出すための口実だったのか、この日、朝廷より信長の官位昇進の勅諚(天皇の指示)が伝えられます。しかし、信長はこれを辞退します。朝廷としては、武田に大勝利を収めた信長がいよいよ天下統一に近づいたと考え織田家との友好関係を強めようとの思惑があったのかもしれません。


信長は自らの昇進は辞退しましたが、代わりに家臣の官位受領を願い出てこれを許されます。このとき官位を受けたものは以下の通りです。


松井友閑・・・・・・宮内卿法印

武井爾伝(じうん)・・二位の法印

明智光秀・・・・・・惟任(これとう)の姓と日向守

梁田広正(出羽守政綱の子?)は別喜(べっき)姓と右近太夫

丹羽長秀は惟住(これずみ)の姓のみを賜ります。このとき官位も授けられるはずでしたが、長秀は辞退したといわれています。


『信長公記』には記されていませんが、この他に公家の日記などから

塙直政・・・・原田の姓と備中守

村井貞勝・・・長門守

羽柴秀吉・・・筑前守

滝川一益・・・伊予守?

この四名も官位を授けられたと考えられています。


惟任や惟住・別喜(戸次:へつぎ)・原田はいずれも九州の名族の姓で、光秀に関しては日向守、羽柴秀吉が筑前守を賜るなど、信長の構想は既に中国地方の雄・毛利氏を越え、九州を見ていたようです。
しかし、信長は毛利氏が本願寺と手を組んだことにより、さらに天下統一事業を困難にさせられ、九州の地にたどり着くことなくその生涯を終えることになります。

 

 

■越前総攻め

8月12日、信長は、前年1月以来、一向一揆の支配する国となっていた越前を平定するため織田軍の主力を率いて出陣します。

 

この時従った主な家臣は、柴田勝家・佐久間信盛・滝川一益・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・細川藤孝・荒木村重らと一族衆の北畠信雄・神戸信孝・津田信澄・織田信包ら。総勢3万余りを率いていました。信長の本陣には馬廻衆など1万余りが控え、この中には前田利家や佐々成政らもいたと思われます。


さらに信長は水軍も動員します。水軍には、若狭の粟屋勝久・逸見昌経・内藤重政・熊谷直之らが、さらに丹後からは一色満信・矢野某・大島某らが数百隻の軍船を率い参陣。そして徳川家康も1万3000を率い参陣していたようです。この時の織田軍の兵力は総勢10万余。


対する一向一揆勢は、木目峠(木ノ芽)砦に西光寺某、鉢伏城に専修寺某と阿波賀兄弟および越前衆。今城・火打城には下間頼照、大良越え・杉津城には大塩の円強寺勢力と加賀衆。海岸に作った新城には若林父子そして府中・竜門寺には三宅権丞というような布陣で織田軍を迎え撃ちます。

 

 

■越前一向一揆の殲滅

8月15日、風雨の中、朝倉旧臣を中心とした越前衆が先陣として織田軍の総攻撃が始まります。先陣には一向一揆によって自害に追い込まれた前越前守護代・桂田長俊の息子も加わっていました。越前衆や丹羽長秀・滝川一益・池田恒興・蜂屋頼隆ら織田方の先陣は一揆衆の主力が集結している木ノ芽(木目)城に兵を進めこれをけん制。


一揆衆の主力が木ノ芽城に釘づけにされている頃、その西側の杉津口に柴田勝家や明智光秀・羽柴秀吉らが攻めかかり、粟屋勝久や逸見昌経・一色満信らが率いる丹後と若狭の水軍が河野浦から上陸し各地に焼き討ちをしながら杉津口の攻撃に合流。さらに一揆方に属していた堀江景忠や森田三左衛門らが織田方に寝返り、背後から一揆衆を攻撃したことにより杉津城の一揆勢は壊滅し逃亡者が続出。捕えられた一揆衆は皆殺しにされます。光秀と秀吉は、円強寺(円光寺)も攻め、その際200~300を討ち取ったそうです。


府中竜門寺砦には三宅権之丞が率いる加賀の一揆衆が立て籠もっていましたが、織田軍は兵を忍び込ませ、中から火を放ち焼き払います。周辺に布陣していた一揆勢は慌てて総崩れになり府中を目指し逃げ出しますが、そこを光秀・秀吉隊に追撃され2000近い一揆勢が討ち取られます。


阿波賀三郎・与三兄弟は自らの命と引き換えに城兵の助命を嘆願しますが信長は許さず、原田直政(丹羽長秀とも)に命じ斬首させ城兵を皆殺しにします。


16日、信長は馬廻り衆など1万を率い敦賀から府中竜門寺砦に本陣を移します。そこへ一揆勢に加担していた朝倉景建が、下間頼照・頼俊・専修寺某を捕らえ首を取り、それを持参して許しを乞いますが、これも許さず向駿河に命じ斬首させます。


一揆方の総大将・下間頼照や頼俊は逃亡したとも伝わり、頼照については10月に高田派黒目称名寺の門徒によって殺害されたという史料(10月18日付、称名寺文書で柴田源左衛門尉(勝定)が越前国称名寺へ下間頼照を討ち取ったことを賞す内容)もあることから景建が持参した頼照らの首は偽物だったかもしれません?


信長はこの府中入りの際の様子だと思われますが、京都所司代・村井貞勝に宛て「今、府中の町は死骸ばかりで埋め尽くされている」といった内容の手紙を送っています。


同じ頃、1万3000の徳川軍は北国街道を進み栃ノ木峠を目指します。栃ノ木峠は、福井県今庄町と滋賀県余呉町との県境。織田軍の猛攻により各地で敗戦が続く中、徳川軍が迫っていることを知った今庄の七里頼周も逃亡。一揆勢は完全に指揮系統を失います。


18日には柴田勝家・丹羽長秀・津田信澄が鳥羽(福井県鯖江市)の城を落とし、500~600を討ち取ります。この日、美濃から金森長近・原政茂が越前大野に攻め込み小さな砦を攻略しながら焼き討ちを仕掛けます。


逃げ場を失った一向一揆勢は山林に逃げ隠れします。ここで信長は「敵を探し出し男女の区別なく切り捨てよ」と各隊に命じます。


15~19日の間に生け捕りにされた一揆勢は1万2250余人。信長本陣に送られ、小姓衆がそれぞれ斬首します。この他にも各部隊により討ち取られた一揆勢も有りそれだけでも3万以上。


23日、信長は本陣を一乗谷に28日にはさらに豊原(福井県坂井郡丸岡町)に進めます。この頃には稲葉一鉄父子・明智光秀・羽柴秀吉・細川藤孝・梁田広正隊は加賀にまで軍勢を進めていました。


このような状況下、堀江(坂井郡芦原町)の一揆勢と小黒(鯖江市)西光寺の門徒も投降して許しを乞います。この時の信長はこの両者の言い分に筋が通っているということで許します。


一方、加賀に攻め込んだ織田軍は能美郡と江沼郡の二郡を平定し、それぞれ檜屋と大聖寺に城を築かせ梁田広正・佐々長秋と降伏してきた堀江衆を加え防備に当たらせます。


こうして越前は平定されますが、討ち取られた一向一揆勢は老若男女含め数万人だったと推測され凄惨なものでした。これにより、石山本願寺の顕如は孤立化を深め窮地に追い込まれていきます。

 

 

■柴田勝家の越前統治と越前国掟

 柴田勝家
 柴田勝家

9月2日、越前を平定した信長は柴田勝家らに越前の政策を指示します。まず越前北庄(福井市)に赴き城を築くよう命じます。

 

この北庄城に勝家を入れ越前の支配を命じます。与力とし前田利家・佐々成政・不破光治さらに金森長近・原政茂・武藤舜秀を付けここに“北陸方面軍”が誕生し、後に越後の上杉氏と激戦を繰り広げることになります。

 

そして、信長は、かつて朝倉家を滅ぼし越前を制圧しながら一向一揆に蜂起され越前の支配権を失った苦い経験を繰り返さないために、事細かに記した「国掟」を定め勝家以下越前の諸将に遵守するよう厳重に命じます。その内容を要約したものは以下の通りです。

 


一.不法な税は取るな。ただし、事情がある場合は、信長に相談せよ。
一.地侍たちを私欲に任せて扱ってはいけない。十分丁寧に扱うよう。しかし、用心は肝要である。
一.裁判は公正に行うこと。もし当事者双方が納得できないような時は信長に伺いを出しその上で判決を下すこと。
一.公家・寺社領は下の所有者に返還すること。ただし、法的な正当性が必要。
一.関所は撤廃すること。
一.大国を任せるので万事油断せず、軍備の増強・兵糧の備蓄を工夫するよう。要するに私欲を避け、正当な税を課し、行政にあたるよう心がけよ。児童を寵愛し猿楽や遊興などは禁止すること。
一.鷹狩りは禁止。ただし、砦を築くためなどの地形を見るのに必要な時はしてよい。
一.領国内の数箇所は直轄領として留保しておくこと。これは、忠節を尽くした者に恩賞を与えるためである。恩賞がなければ家臣は本心から忠節は尽くさないものである。
一.事態に変化が生じた時は信長の指図に従うよう。しかし、指図に無理・非法があるのを承知しながら従うなことがあってはならない。差し支えあれば弁明せよ。聞き届けて理に従うつもりである。ひたすら信長を崇敬し、見えないと思って気を抜いたりしてはならない。信長のいる方角へ足を向けないよう心がけることが必要である。そのように心がければ、武士として加護も有り、武運も末長いであろう。よくよく留意せよ。


以上が勝家に対して心構えを記したものですが、さらに利家・成政・光治に対しても
「越前のことは大部分を勝家に委任してある。貴殿ら三人を柴田の監察者として置き(越前)二郡の支配を申し付ける。貴殿らの善悪は柴田から報告が来ることになっているので互いに切磋琢磨するよう。怠れば処分されるものと心得よ」と指示します。


9月26日、越前での戦後処理を終えた信長は岐阜に帰国します。

 

 

■本願寺と毛利家の密約

10月19日、京から遠く離れた奥州(東北地方)から伊達輝宗の使者・鷹匠の菅小太郎と馬添い樋口某がやってきます。目的は“天下人”信長へ名馬や鷹などを献上するためでした。

 

10月初旬に信長は家臣を奥州へ鷹50羽を取りに行かせているので、この時伊達家と何かしらのやり取りがあったのかもしれません。


輝宗は“がんせき黒”と“白石鹿毛”の二頭の馬と鶴取りの鷹二羽を献上します。信長はとくに白石鹿毛が気に入ったそうです。信長は清水(京都市東山区)に赴き使者をもてなします。この時供応役を命じられたのは、京都所司代・村井貞勝なので伊達家の使者はかなりの厚遇で迎え入れられたようです。


20日、播磨の赤松広秀・小寺識隆・別所長治らも国衆数名を引き連れ、信長への挨拶のため上洛してきます。


長篠・設楽原の戦いで武田氏に大打撃を与え、越前一向一揆を殲滅し、いよいよ信長による天下統一が現実味を帯びてきて近隣諸国はもちろんの事、はるか奥州の伊達氏まで信長と友好関係を築いておこうと動き出していました。九州の大友氏は早くから信長に接近し、さらにはこの頃四国・土佐一国を平定した長宗我部元親も信長と友好関係を結ぼうと明智光秀を介し接触してくるなど天下統一は一気に加速するかに見えました。


しかし、この時期、反信長の中心である本願寺の法主・顕如は越前一向衆を壊滅させられ危機的状況に陥り次なる策を模索します。その最初の一手が信長との和睦でした。


10月21日、信長に降っていた三好康長と宮内卿法印・松井友閑を通じて信長に和議を申し入れます。本願寺方から下間頼廉以下四人の長老衆が出頭し中国宗末の画家の絵三軸を和睦の証として献上、さらに三好康長にも『三日月の葉茶壷』を献上します。


この和睦は、信長も顕如も一時的なものと心の中では思っていました。顕如は和睦直後から(その前から?)次の手を打ち始めます。この時期、紀伊・由良の興国寺に移っていた“将軍”足利義昭を通じて中国地方の雄・毛利氏に救援を要請。さらに紀州熊野の門徒には鉄砲衆を含めた百名を石山本願寺に送るよう要請するなど防御を固め始めます。


毛利氏はこの時点では表立って織田家と対立していませんでしたが、信長からは各地での戦勝報告という名の“脅迫文”が毛利家に幾度となく届けられ本願寺が滅亡すれば次の標的になることは明白でした。


また、尼子家再興を目論む尼子勝久やその家臣・山中幸盛(鹿介)らは因幡や但馬を領する山名氏の支援を受け毛利家と対立。信長は尼子氏討伐を認めながらも(後に織田家が尼子氏を支援することに)但馬は織田家の分国であるという認識にあり、山名氏と毛利氏の和睦を勧めますが、毛利家は信長が密かに尼子氏を支援しているのでは?と疑念を抱きます。


信長に臣従するか、将軍・義昭や本願寺と連携して対立するか、家中では当主・輝元や吉川元春・小早川隆景そして織田家との交渉役を務める安国寺恵瓊らを中心に激論が繰り広げられますが、毛利元就以来中国地方で勇名をはせた毛利家が織田家と戦うことなく臣従することはありませんでした。


翌年2月、将軍・義昭が半ば強引に毛利領の備後・鞆に移り住むことにより毛利家は織田家との対決を決断し、義昭や本願寺顕如らと手を結び反信長陣営に加わることになります。

 

 

■信長と千利休

 千利休
 千利休

10月28日、信長は京都や堺の茶人17人を招き京都・妙覚寺で茶会を催します。

この茶会で、顕如が献上してきた「白天目茶碗」や「九十九髪」の茶入れや「松島」の茶壷など天下に名の知れた名物を披露しました。


この時、茶頭を務めたのが千宗易のちの利休ですが、利休と名乗るのは信長死後の天正13年のこと。『信長公記』に「宗易」の名が登場するのはこの時が初めてです。しかし、実際には7年前、信長が足利義昭を報じて上洛した直後、堺に2万貫文の矢銭を課しその交渉にあたった際、今井宗久、津田宗及らを通じて出会ったようです。


『千利休由緒書』によると、この頃「御茶頭を仰せ付けられ三千石を給された」とあるそうで、今井宗久、津田宗及と共に信長の茶頭に起用され後に天下三宗匠と呼ばれるようになります。


利休は大永2(1522)年生まれなので信長より12歳年上。茶頭として信長に仕え、「蘭奢待」を下賜されるなど信長に厚遇されますが、その一方で本能寺の変の(堺会合衆と組んでの)黒幕説もあります。


信長の死後は秀吉に同じく茶頭として仕えますが、天正19(1591)年2月突如秀吉に切腹を命じられその生涯を終えます。理由はいろいろな説がありますが、茶頭として信長・秀吉という天下人の側近くに仕え、政治的にも大きな発言力を持つようにり、秀吉はそれを疎ましく思ったのかもしれません。秀吉は利休の最大の理解者であり庇護者であった弟の豊臣秀長の死後、利休を死に追いやります。秀吉に諫言出来る者がいなくなり、この後、朝鮮出兵という暴挙を犯してしまいます。

 

 

■信長と長宗我部元親

 長宗我部元親
 長宗我部元親

長宗我部元親は天文8(1539)年生まれ(他説あり)なので、信長より5歳年下になります。信長が桶狭間で今川義元を破った永禄3(1560)年に元親は22歳という年齢で初陣を迎えています。一般的に15歳前後で初陣を迎えることが多いのでかなり遅い初陣になりますね。この年、父の死を受けて家督を相続。

 

天正3(1575)年、信長は長篠・設楽原合戦で武田勝頼を破り、越前一向一揆を滅ぼしますが、この年、元親はようやく土佐一国を平定。


10月頃、元親は信長に接触。土佐を平定し、いよいよ四国全土平定へ向け第一歩を踏み出した元親は中央の実権を握る信長と誼を通じておくのが得策であろうとの外交方針で信長に近づいたものと思われます。


実は元親は早い時期から明智光秀の重臣・斎藤利三とのつながりがありました。利三の実兄が石谷家の養子になり石谷頼辰(いしがいよりとき)と名乗っていましたが、その妹(利三の異父妹)が元親の正室になっていました。その婚儀が行われたのは永禄6(1563)年のこと。この縁を頼りに元親は利三・光秀を介して信長との交渉にあたります。


元親は家臣・中島可之助(べくのすけ)を使者として送り、信長との交渉にあたらせます。この時、元親から嫡子・弥三郎の烏帽子親(元服の際、烏帽子をかぶせる仮の親)をやってもらいたいとの申し出があります。


この申し出を受けた信長と可之助の間にこんなやり取りがあります。信長は元親を評し、「無鳥島蝙蝠」(ムチョウノトウヘンプク)-鳥がいない島でコウモリが自分を鳥と思い込んでいる-と皮肉を言います。
これに対し可之助は「蓬莱宮之寒天」(ホウライグウノカンテン)と答えました。蓬莱宮とは四国を意味し、寒天はその原材料が“てんぐさ”であり、それにかけて“天狗さ”=「天狗になってます」という意味でしょうか?


この返答を気に入ったのでしょか?天正3(1575)年10月26日付けの朱印状で、信長は弥三郎の烏帽子親を引き受けることを元親に伝えます。この弥三郎は、信長の“信”の一字を賜り、信親と名乗ることになります。


更に信長は、四国に進出するのは到底無理な時期であり、元親に「四国勝手切り放題」の許しも与えます。


元親はこの後も着実に四国での勢力を拡大していき、やがて天下統一を目指す信長と対立することになります。しかし、織田軍が四国に上陸する直前、本能寺の変が勃発。このようなタイミングで変が勃発したため元親と縁戚関係にある光秀の重臣・斎藤利三が謀反を画策したのでは?との説も唱えられることになります。

 

 

■権大納言 織田信長

 織田信長
 織田信長

10月、この頃、朝廷より再び官位昇叙の内命を受けます。この年、7月に一度は辞退していましたが、再度の申し入れにこれを断るのは朝廷との関係を悪化させる可能性があると考えたのか、この時信長は内命を受諾します。

 

官位は従三位権大納言。早速、官位昇進の儀式を執り行うための式場作りがはじめられます。担当の奉行は木村次郎左衛門尉高重。数週間で宮中に式場を造営します。


11月4日、信長は清涼殿に参内し正式に従三位権大納言に任じられます。

 

11月7日、さらに右近衛大将(右大将)にも任じられます。また、岩村城を攻略中の嫡男・信忠も不在ではありましたが秋田城介を拝命します。


権大納言に昇進したことにより信長は朝廷の最高機関の一員となり朝議にも加わることが出来る地位に上り詰めます。ちなみに大納言とは左大臣や右大臣、内大臣を補佐する仕事だそうです。そして「権」は定員を越えて任命する場合に付けられるそうです。さらに右近衛大将(右大将)とは、六衛府(左・右近衛府、左・右近衛府、左・右近衛府)のうち、右近衛府の長官という立場で、天皇を警護する役だそうです。


このような祝い事が執り行われている頃、美濃で武田家臣・秋山虎繁(信友)が籠もる岩村城を攻撃している嫡子・信忠には危機が迫っていました。岩村城救援のため、再び武田勝頼が動き出そうとしていました。

 

 

■岩村城攻略と秋山虎繁の死

 秋山虎繁
 秋山虎繁

11月10日、美濃・岩村城を包囲している信忠軍が陣取る水精山(水晶山)に突如、岩村城の武田軍が夜襲を仕掛けてきます。長篠・設楽原の合戦直後の5月下旬から包囲され既に半年近くが経ち、兵糧も残りわずかとなり岩村城を守る武田軍の秋山虎繁(信友)は最後の勝負を仕掛けてきました。

 

信忠は先陣としてこれに立ち向かいます。河尻秀隆や毛利秀頼・浅野左近・猿荻(さるうぎ)甚太郎も諸所で武田軍を打ち破り、武田軍は織田方の作った柵を破壊する程度の成果のみで、夜襲は失敗に終わり再び籠城を余儀なくされます。織田軍は逃げ遅れた武田軍の大将格21人を含め、1100余りの兵を討ち取ります。

この頃、武田勝頼は岩村城の救援のため甲斐・信濃の農民をかき集め出陣。


14日、この報を受けた京の信長は戌の刻(午後8時前後)、暗闇の中、急きょ岐阜に向け出発。翌朝、岐阜城に到着します。


21日、夜襲が失敗に終わり万策尽きた秋山虎繁は勝頼の到着を待つことなく、信忠配下の塚本小大膳を介して城兵の助命を条件に降伏を申し入れてきます。
信忠はこの降伏を受け入れたと見せかけ、出頭してきた秋山や大島某・座光寺為清を捕らえ岐阜の信長の下へ送ります。そして、残った岩村城兵にも攻め掛かります。武田方の抵抗も激しく織田方にも多くの負傷者が出ますが、岩村城は炎上。岩村城兵の多くが焼け死ぬことになります。


岐阜に送られた秋山虎繁らは長良川の河原に磔にされ処刑されます。この時、信長は、岩村城を秋山に明け渡し、その妻になっていた叔母のおつやの方を自らの手で処刑したといわれています。
岩村城の救援に向かっていた勝頼は落城の報を受け帰国の途に着きます。


24日、信忠は岩村城に河尻秀隆を入城させ岐阜に凱旋します。
既にふれたように岩村城包囲中の11月7日、信忠は天皇より勅諚を賜り、秋田城介(あきたじょうのすけ)に任命されています。秋田城介とは国の出先機関である秋田城の長官であり、信長の構想の中で、本能寺の変がなければ東国(関東・東北)方面の総司令官を信忠に任せるつもりだったのかもしれません。

 

 

■嫡男・信忠の家督相続

 織田信忠
 織田信忠

11月28日、信長は織田家の家督を嫡男の信忠に譲ります。尾張・美濃の二ヶ国とともに「星切りの太刀」を含めた多くの家宝を譲り、自らは茶の湯の道具のみを持って佐久間信盛邸に移りました。この時、信長42歳、信忠19歳。

 

信長が、父・信秀の死によって家督を継いだのは18歳の時ですが、その父が死んだのは42歳でした。

※年齢には諸説あり


信忠が岩村城を攻略し一人前になったと認めて家督を譲ろうと考えたと思われますが、もしかしたら信長は父・信秀が死んだ年齢に自分が達し、自らの死というものを意識し始めたのかもしれません。信長が好んで舞った『敦盛』の一節にも「人間五十年~」とあるように「自分もいつ死んでもおかしくない」そう感じていたのかもしれません?


信長は父の突然の死により家督を継いだため、その後家中をまとめるのに苦労し、実弟・信勝を含め一族の多くを殺さなくてはいけない過酷な状況になってしまいました。その様な思いを信忠にさせないためにも早期の家督継承を実行したと思われます。


ただ、家督は譲ったものの依然、実権は信長が握っている状態で信忠が実際に掌握したのは織田家というよりは、尾張・美濃の二ヶ国のみでした。


そして、居城がない状態になってしまった信長の頭の中には既に次なる居城の構想がすでに出来上がっていました。近江の安土に城を築くという構想です。

 

この年、池田恒興の四男・長政や長宗我部元親の四男・盛親らが誕生。

そして、7月に長宗我部元親は土佐一国を平定しています。