【信長史】1569 六条合戦

■将軍・足利義昭の危機

永禄12(1569)年、信長36歳。

1月4日、足利義昭が御所としている、六条の本圀寺に突如、三好長逸三好政康岩成友通の三好三人衆の軍勢が攻め込んできます。このとき三好軍の先陣大将は薬師寺九左衛門が務め、その軍勢の中に美濃を追放された斎藤龍興や斎藤家の旧臣・長井道利などの浪人も加わっていました。

 

三好軍は御所である本圀寺を包囲し、周辺の町を焼き払います。このとき御所内には、細川藤賢・織田左近将監・津田左馬丞・明智光秀、若狭衆の山県盛信・宇野弥七らが守っていました。

 

山県盛信・宇野弥七の両名は、三好軍に果敢に攻めかかり薬師寺九左衛門の旗本の多くに手傷を負わせますが討ち死にします。

他所でも激戦が繰り広げられ、義昭方の予想以上の抵抗に三好勢は苦戦し、その間に義昭方の援軍が到着しました。援軍に駆けつけたのは細川藤孝と織田に臣従していた三好義継・池田勝正・池田清貧斎・伊丹親興・荒木村重らの軍勢でした。援軍は桂川に陣取る三好三人衆の後方部隊を攻撃。挟み撃ちになった三好三人衆の軍勢は多くの将兵を失い総崩れとなり敗走します。

 

6日、岐阜の信長のもとに急使が到着。本圀寺が三好三人衆に襲撃されたとの報を受け、信長は早速上洛の命令を出します。その日、岐阜は珍しい大雪だったようですが、桶狭間の合戦時を思わせるように信長はすぐさま馬にまたがり出陣します。

 

この時は一騎駆けはしませんでしたが、馬借(荷駄隊)の者たちが荷物の重さでもめているのをすばやく自ら点検し、「同じ重さだ!急げ!」と命じ京に向け出陣。大雪の為、途中で人夫や下働きの者が数人凍死する状況のなか、信長は通常三日はかかる行程を大雪の中、二日で京に到着。このとき同時に到着できた者はわずか十騎足らずでしたがそのまま六条の御所へ駆け込みます。

すでに戦いは終わっており、将軍義昭が無事なのを確認すると安堵し、このとき一番の活躍をした池田清貧斎に褒美を与えたそうです。ちなみにこの六条の合戦は「本圀寺の変」とも呼ばれています。本能寺と間違えそう・・・

 


■殿中御掟

1月14日、信長は義昭に九ヶ条からなる『殿中御掟』を示し、義昭に承諾させます。

 

 

一、御用係や警備係、雑用係などの同朋衆など下級の使用人は前例通りをよしとすること。 
一、公家衆・御供衆・申次の者は将軍の御用があれば、直ちに伺候すること。
一、惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならないこと。

一、幕臣の家来が御所に用向きがある際は、信長の許可を得ること。それ以外に御所に近づくことは禁止する。

一、訴訟は奉行人(織田家の家臣)の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならないこと。

一、将軍への直訴を禁止すること。

一訴訟規定は従来通りとすること。

一、申次を差し置いて当番衆が将軍へ披露してはならないこと。

一、石山本願寺の坊官や比叡山延暦寺の僧兵・医師・陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。

※条文『ウィキペディア』より

 

16日、さらに七ヶ条を追加し、全十六ヶ条とし義昭に承諾させます。義昭にとって屈辱的内容でしたが、信長の武力を背景に将軍の座に着いた義昭としてはこれを拒絶することは不可能でした。

 

信長はこれを承諾させることにより実質的に将軍・足利義昭は傀儡であると宣言したようなものでした。そして、これを機に義昭の信長への不信感は強まっていくことになります。

 

 

■二条城築城

2月、信長は三好勢の本圀寺襲撃の一件であらためて畿内が依然危険な状況であることを認識し、領国尾張・美濃のほか五機内・若狭・丹後など十四カ国の諸大名・武将に上洛を命じ、二条にある古くなった旧斯波義廉邸を将軍の御所に改築させます。

約70日という短期間工事でしたが金箔瓦も使われた立派な城だったようです。しかし、墓石や石仏なども使われていたようです。

 

4月、将軍・義昭は完成した二条城に入ります。竣工祝いに信長は義昭に太刀と馬を献上。義昭も三献の礼を持って信長に酌をし、剣などを与えました。


信長は長期間にわたり二条城(本能寺の変で織田信忠が討ち死にした二条御新造や家康の二条城とは別)改築に携わった諸大名・武将それぞれに礼を述べ帰国の許可を与えたそうです。

 

 

■ルイス=フロイスとの出会い

二条城築城中の3月、信長はキリスト教宣教師・ルイス=フロイスと初めて出会います。

 

二人の出会う20年前の天文18(1549)年にフランシスコ=ザビエルによって日本に伝えられたキリスト教ですが主に九州を中心に布教活動が行われていました。

永禄3(1560)年、桶狭間合戦のあった年、ザビエルの後を受けたガスパル=ビレラ(コメス=ド=トレスとの説もあり)が時の将軍13代義輝の許しを得て京での居住を許されます。フロイスはこのビレラと行動を共にし、迫害を受けながらも布教活動を続けます。

永禄8(1565)年5月の義輝暗殺で状況が一変します。キリスト教の布教活動に不快感を抱いていた法華宗徒の公家が正親町天皇にバテレン殺害を進言します。当時、京を支配していた松永久秀や三好義継は独断でバテレン殺害を始めますが、天皇はこれを良しとせず宣教師や信者を京からの追放という形をとります。


以後三年余り、京での布教活動は不可能になってしまいます。しかし、信長の上洛を好機と見たフロイスは和田惟政に仲介を依頼。信長から布教活動の許可を得るべく再び京へ向かいます。

 

永禄12(1569)3月13日、和田惟政はフロイスから託された贈答の品である黒いビロードの帽子や大きな鏡・孔雀の尾羽などを携えて信長のもとを訪れます。

信長はこの中から帽子のみを受け取り他は返します。さらにフロイスとの直接の面会も見送ります。その理由は初めて会う異国の人物に対し「はるばる遠国の地から訪れた異国人とどのように接してよいかわからない」ということと「むやみに会って信長自身がキリシタンになろうとしていると思われてしまう」ことを警戒したためだったようです。

 

4月上旬、信長はフロイスの謁見を許可します。二人が初めて顔を会わせたのは造営中の二条御所の建築現場で、ここで二時間ほど語り合ったようです。
その後、フロイスは数日前病気と称して会えなかった足利義昭にも信長のはからいで謁見することができました。義昭は信長の仲介ということで断れなかったのでしょう。


数日後、信長はフロイスに京での居住や布教活動などを許します。その礼を述べるためか、さらに数日後、フロイスは再び信長のもとを訪れます。そのときフロイスは目覚時計の献上を申し出ます。その時計に信長は感激しながらも、時計を動かし続けることの難しさを認識しこれを断りました。これ以降信長は一貫してバテレン保護政策をとり続けます。


キリスト教の宣教師・ルイス=フロイスは、戦国時代の史料として有名な『日本史』の著者でもあります。この『日本史』はイエズス会の日本宣教の記録ですが、フロイスが見た当時の日本の様子がよく描かれており貴重な史料とされています。

 

 

■名物召し上げ

5月、信長はわざわざ条目(法令)を発布して、唐土(中国)などから輸入された茶道具や絵画などの名物を召し上げる命令を出します。召し上げるといっても金銀や米などと引き換えだったようですが、半強制的に召し上げたものと思われます。

 

『信長公記』によれば、召し上げられたものは以下の名物です。

・茶入れ「初花」「富士茄子」

・竹茶杓

・花入れ「蕪なし」「桃底の花入れ」

・絵画「平沙落雁図」


これらを松井友閑と丹羽長秀が使者となって召し上げたようです。この条目を発布して

 

5月11日、上記の名物を持ってと思われますが、信長は岐阜に帰国します。


信長は突如、このような名物収集を始めたわけではなく、元服してから家督を相続するまでの間にすでに茶道には触れていたようです。最初の茶頭を務めたのは斎藤道三と縁の深い不住庵梅雪という人物でした。この頃、天下の名物とはいえないまでも父・信秀の財力を大いに利用して、そこそこの茶道具を所持していたものと思われます。
そして、その後も信長のもとへは、名物狩りで得るだけでなく、敵将の降服の証しであったり、和睦の証しとして天下の名物が続々と集まることになります。

 

やがて信長は茶道を政治的に利用することを考え、家臣の茶会を開く権利を制限し、軍功のあった者に茶会を催す権利を与えたり、恩賞として茶道具を与えるなどし、それまでの恩賞は“領地”といった考え方を一変させることに成功します。


それを物語る逸話としては滝川一益の話が有名でしょうか。

武田攻めに功のあった一益に上野国が与えられることになりましたが、一益は実は領地よりも天下の名物「珠光小茄子」を所望したという話があります。


他にも松永久秀が謀反を起こした際、信長に名物「平蜘蛛」を差し出せば命は助けるといった申し出を拒絶し、「平蜘蛛」と共に自爆した話も有名ですね。これに関しては日頃から信長が「平蜘蛛」を欲しがっていたことを知っていた久秀が最後の抵抗で「平蜘蛛」を爆破したようです。


信長はその生涯で多くの名物を収集しましたが、その多くが本能寺の変の際、信長と共に炎の中に消えてしまう運命をたどります。

 

 

■南伊勢、北畠氏の降服

 北畠具親
 北畠具親

永禄11(1568)2月、北伊勢をその支配下に置いた信長ですが、伊勢の南部を支配する国司北畠氏は依然信長に対抗する姿勢を崩していませんでした。ちなみにこの頃の北畠氏の当主は具房でしたが、実権を握っていたのは隠居していたその父・具教でした。

 

永禄12(1569)年8月、信長は伊勢を平定するべく北畠氏攻めを本格的に開始します。手始めに伊勢国中央にある北畠氏の支城・阿坂城を攻めます。先陣は木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)。緒戦はやや苦戦し秀吉自身、軽傷を負いますが次々攻め立て、城方の将兵は降伏します。

 

8月27日、織田軍は北畠氏の本拠・大河内城に一気に迫ります。信長は堅固な城である大河内城を攻めるにあたり7万とも10万ともいわれる軍勢を投入します。信長自身が指揮を取り、織田家の主だった家臣ほとんどを動員する総力戦でした。北近江(江北)の浅井氏からも援軍を得ていたようです。

 

信長は大河内城を包囲し兵糧攻めの作戦を取ります。

東には、柴田勝家・森可成・佐々成政・不破光治らを配置。

西には、木下藤吉郎・氏家卜全・佐久間信盛らを配置。

南には、長野信良(後の信包)・滝川一益・稲葉一徹や丹羽長秀・池田恒興らを配置。

北には、斎藤新五郎・坂井政尚・磯野員昌・蜂屋伯耆らを配置。
城の周りに鹿垣(柵)を二重三重と張り巡らします。その柵内の巡回警備の番衆に前田利家や菅屋長頼・河尻秀隆・毛利秀頼などが任命されます。
信長の本陣を馬廻り衆・小姓衆・弓衆・鉄砲衆が固めるという、以上のような布陣を敷きます。


9月8日、稲葉一徹・池田恒興・丹羽長秀に命じて城の西側の搦め手から夜襲をかけさせます。このとき雨が降り出し、鉄砲が使用できなくなり、織田方は20人余り討ち取られ強襲は失敗に終わります。
信長はこれに懲り、再び兵糧攻めに切り替えます。滝川一益に命じて城周辺を焼き払い、稲などを薙ぎ払い捨てさせます。こうして次々と城内に領民を逃げ込ませ城の人数を増やし兵糧の尽きるのを早める作戦を取ります。


10月3日、餓死者が続出する状況に北畠父子は降伏を決断。信長の次男・茶筅(後の信雄)を具房の嗣子にすることを条件に城を明け渡し、それぞれ笠木城・坂内城に退去します。


10月4日、織田方は滝川一益・津田一安が大河内城の受け取りに入城。ここに伊勢は平定されます。


以上は『信長公記』によるものですが、他説としてなかなか城を落とせない状況に織田方から和睦を申し入れたという話もあります。いずれにしても織田方が有利な条件で戦は終わります。


伊勢を平定した信長は、早速、伊勢国内の関所撤廃の命令を出します。

 

10月5日、信長は伊勢神宮参拝に出発。

6日に内宮・外宮・朝熊山に参詣します。
大河内城に北畠具豊(茶筅後の信雄)を城主として入れ、その補佐役に津田一安を任命。伊勢中央の安濃津・渋見・小作の支配を滝川一益、伊賀上野の支配を長野信良(信長の弟・信包)に命じ京へ戻ります。

 

 

■足利義昭との対立

10月中旬?、信長は伊勢平定の報告のため早速、将軍足利義昭のもとを訪れます

 

10月17日、信長はしばらく京に滞在する予定でしたが、突如岐阜に帰国してしまいます。

 

『信長公記』には、そのときの出来事を「伊勢一国を平定したことを将軍義昭に報告し、4~5日京に滞在して政務を処理し10月17日岐阜に帰国。めでたいことである。」と記すのみですが、めでたいどころか、この数日の間に信長と義昭が対立するような重大な出来事が起こっていたようです。

 

信長が義昭を奉じて上洛して約一年が経過しており、実際はこの数日というよりは、この間に徐々に二人の間に溝ができており、このときに一気に爆発したと考えたほうがいいのかもしれません。
一説に義昭は、信長の北畠攻めに反対であったという話しもあり、その理由としては、義昭の父・12代将軍義晴が北畠具教の父・晴具の支援を受けており、さらに義昭の兄・13代将軍義輝と北畠具教は共に剣豪・塚原卜伝に剣術を学んでおり兄弟弟子であったということも一因だったかもしれません。


この対立の噂は近隣諸国にも広がったようで、朝廷内にも伝わり早速両者の仲介・関係修復のため朝廷は岐阜の信長のもとへ使者を送り義昭の代わりに詫びを入れたようです。

 

この年、明智光秀の長男・光慶や、のち秀吉の養子となる姉の子・小吉(のち豊臣秀勝)が誕生。