【信長史】1534~1551 信長誕生と父・信秀の死

■織田信長、誕生

 織田信長(長興寺蔵)
 織田信長(長興寺蔵)

天文3(1534)年5月12日(11日・28日など諸説あり)、織田信長は信秀三男(次男説も)として尾張国・勝幡城(愛知県海部郡佐織町勝幡 名鉄津島線勝幡駅近く)にて誕生。幼名は吉法師。母は正室・土田御前。

ちなみにこの時代、年齢は数え年で表記されるので信長1歳ということになります。

 

生まれたばかりの吉法師(信長)にこんなエピソードがあります。

この頃の慣習として、武家の子供は乳母に育てられることが多かったようですが、吉法師もその例に漏れず乳母に育てられました。


生まれてすぐに乳母に預けられた吉法師ですが、乳母が次々と変わることになります。それはなぜか?吉法師はなんと授乳中に乳母の乳首を噛みちぎるという癖をもつとんでもない赤ん坊だったからです。

しかし、ある乳母になるとすっかりおとなしくなります。それは信長の乳兄弟として有名な池田恒興の母(のちの養徳院)が乳母になったときでした。
後に信長は養徳院を「大御乳」(おおおち)と呼び敬愛したそうです。二歳年下の恒興も実の兄弟以上に信長を兄のように慕い、信長が死ぬまで裏切ることなく忠節を尽くします。



信長が生まれたこの年の主だった戦国武将の年齢を記しておきます。※すべて数え年です。一部の武将は推定年齢です。斎藤道三(41)、毛利元就(38)、松永久秀(25)、今川義元(16)、武田信玄(14)、柴田勝家(13)、上杉謙信(5) 

 

 

■信長、那古野城主となる

現在の名古屋城・二ノ丸
現在の名古屋城・二ノ丸

天文7(1538)年、信長5歳。

吉法師は那古野城主となります。しかし、これはあまり信憑性がないようです。ちなみにこの那古野城は現在の名古屋城二之丸付近にあったようです。

 

太田牛一が著した『信長公記』には“ある時”と記されているのみではっきりした記述がありません。牛一は信長の幼い頃のことに関しては当時を知る関係者の話をききながら書いたと考えられるので、はっきりした記述が出来なかったのだと思います。


『信長公記』の記述を要約すると「ある時、那古屋にきた信長の父・信秀が吉法師(信長)に林秀貞・平手政秀・青山与三衛門・内藤勝介(四家老)をつけ、那古屋城を譲り、信秀自身は古渡に城を築き居城とする」としたそうです。
ただ、信長の幼い頃のことで、関係者の記憶も曖昧なのか、青山与三衛門・内藤勝介が家老と言われる立場だったのか?さらにその存在自体もはっきりしないようです。

戦国史研究の第一人者である谷口克広氏の推測ではありますが、天文15年(信長13歳)の吉法師の元服を機に那古屋城を譲ったのではないかとされています。それまでは、父・信秀が那古屋城主で両親と共に信長は育ったと考えられているようです。

 


この年、美濃守護代・斎藤利良死去し、信秀は大垣城の竹腰氏と戦い勝利しています。そしてに前田利家が誕生。前年の天文6(1537)年、羽柴秀吉が誕生。 

 

 

■第一次小豆坂の合戦

天文11(1542)年、信長9歳。

この年、三河国(現在の愛知県)で信長の父・織田信秀と今川義元が争います。

 

織田軍は4千、対する今川軍はなんと、4万。兵数に多少の誇張はあるかもしれませんが、かなりの兵力差であったことは間違いないと考えられます。

この圧倒的な兵力差がありながら、信秀は義元をみごと打ち破ります。

 

18年後、信長は桶狭間の戦いでわずか2千(5千とも)の兵で今川義元の2万5千(4万とも)を破っていますが、さすが織田父子。今川義元が弱いと言う指摘もあるかもしれませんが、海道一の弓取りといわれていた義元、さらにはこの当時、今川家には名軍師と言われる太原雪斎も健在。けっして弱くはなかったはずです。信秀・信長父子の実力もあるとは思いますが、ともに強運の持ち主だったのでしょう?

ただ、この合戦実はなかったのではないかという説もあります。さて真偽はいかに?

 

この年、松平竹千代(後の徳川家康)が岡崎城で誕生。

 

 

■吉法師の元服

天文15(1546)年、信長13歳。

吉法師は、父・信秀の居城・古渡城にて元服し、三郎信長と名乗ります。

 

太田牛一の『信長公記』によれば、林秀貞・平手政秀・青山与三衛門・内藤勝介がお供をして古渡城に行き、盛大な酒宴が行われ祝儀もすごかったそうです。


ちなみに太田牛一(1527~1610年)は、この「信長史」を書く史料の中心となっている『信長公記』の著者で又助、のち和泉守信定。信長に仕えた武将で弓の名手でもあります。戦場の働きよりは右筆としての活躍が有名。『信長公記』は、信長研究には欠かせない信頼できる第一級の史料のひとつです。

 

この年、武田信玄の四男・勝頼が誕生します。 前年には、1545年には浅井長政も誕生。

 

 

■信長の初陣

 信長初陣の図
 信長初陣の図

天文16(1547)年、信長14歳。

信長は初陣を迎えます。『信長公記』によれば、傅役の平手政秀が、その準備に奔走したそうです。
どのような姿であったかと言うと「紅筋が入った頭巾と馬乗りの羽織、馬鎧」だったようです。

 

さて初陣の相手はといいますと、後に信長が戦国大名として全国に名を広めるきっかけとなる駿河の今川氏の精鋭部隊2千(3千とも)。場所は三河の吉良(愛知県の吉良町)・大浜(碧南市)。対する信長勢はわずか800ほどだったため、当初、家老の平手や林秀貞、青山三右衛門、内藤勝介は合戦に反対したそうですが、信長はその意見を聞き入れなかったようです。


風の強い日を見測り、一気に攻め入った信長勢は吉良・大浜の諸所に火を放ち、今川方の将兵は散り散りになります。信長はその日は野営し、翌日には那古屋に帰陣。見事な勝ち戦で家老衆を大いに喜ばせたようです。


通常、どんな武将も初陣は確実に勝てる戦を選ぶようですが、信長は劣勢でありながら初陣を強行し、見事に勝利を収めました。しかし、織田家の嫡子を預けられた平手をはじめとした織田軍の将兵は、万が一にも信長が討ち死にするようなことがあってはならないと必死に戦ったのかもしれませんね。

 

この年、信長の妹・お市が誕生します。 

 

 

■松平竹千代、織田家の人質となる

天文16(1547)年、信長の初陣のこの年、もうひとつ大きな出来事がありました。松平竹千代のちの徳川家康(このとき6歳)が、織田家の人質となります。

 

信長の父・織田信秀が岡崎に攻め入るとの情報を得た、竹千代の父・松平広忠は今川義元に援軍を求めます。その際、義元は竹千代を人質に差し出すよう要求。広忠はこの要求を受け入れ、竹千代を駿河府中の義元の元へ送ります。

 

しかし、その途中、三河渥美田原城主の戸田康光の家臣又右衞門が、護送中の松平竹千代を塩見坂で奪い、織田家に売り渡してしまいます。


ちなみに戸田康光の娘は天文14(1545)年に松平広忠の側室となっています。そして、後に戸田氏は今川義元に攻められ滅亡することになります。


天文18(1549)年に信長の兄・織田信広と人質交換されるまで、約2年間竹千代は織田家で人質生活を送ることになります。


信長14歳・竹千代6歳。十数年後、同盟を結ぶことになるこの二人。この間に二人にどのような接触があったかは不明ですが、顔を合わせていた可能性は非常に高いと思います。仲良く遊んだりはしなかっただろうな~? 

 

 

■信長の婚姻

天文17(1548)年、信長15歳。

この年の秋、織田信秀は美濃の斎藤道三と和睦し、嫡子・信長と道三の娘・帰蝶の婚儀を執り行います。帰蝶は後に濃姫(のうひめ)とも呼ばれます。

 

一説にはこの同盟・婚姻には信長の傅役・平手政秀が必死の交渉の末、成立させたとも言われています。


この時期、織田信秀は北に斎藤道三、東には松平広忠・今川義元と対立するという状況で、この年3月には第二次小豆坂の合戦があり、今川氏に敗退していました。このようなことも和睦の背景にあったようです。

この婚姻により、ひとまず北からの脅威がなくなったのは織田家にとっては何よりの朗報でした。


ここで帰蝶が嫁ぐ前に父・道三と交わした有名なエピソードを紹介しておきます。
道三は帰蝶に一振りの懐刀を与えその時、「信長はうつけ者(バカ者)との評判である。もし誠のうつけ者であったならこの刀で信長を刺し殺せ」と言ったようです。それに対し帰蝶は「承知しました。ですがこの刀、父上を刺す刀になるやもしれませぬぞ」と返答したそうです。

さすが”美濃のマムシ”道三の娘ですね。このくらいの気性でないと信長の正室は務まらないですね。


ただ、この帰蝶、これ以降『信長公記』に記述されることもなく、どのような生涯をたどったか謎に包まれています。
信長との間に子供も出来ず、結婚後すぐ死んだと言う話もあったり、本能寺の変後も生き延びたと言う話もあります。
信長との間に子供が出来ていたら、いろんな意味ですごい子が誕生していたかもしれませんね。なんといっても、祖父が道三と信秀。父は信長ですからね・・・ 


この年、後に秀吉の正室となる“おね”(北政所)が誕生。 

 

 

■織田信広と松平竹千代の人質交換

天文18(1549)年、信長16歳。今川義元の軍師として有名な太原雪斎が三河・安祥城を攻め落とします。この時、信長の異母兄である織田三郎五郎信広が捕えられてしまいます。

 

今川家は、信広と松平竹千代(後の徳川家康)の人質交換を申し入れてきます。これを了承した信秀は、尾張笠寺で人質交換を行います。
竹千代は駿府へ護送され、以後桶狭間の合戦で今川義元が討たれるまで、今川家で人質生活を送ることになります。


しかし、竹千代は人質というよりは、家臣のように扱われていたようで、元服の際には今川義元の“元”の一字をもらい元信(後元康)と名乗り、弘治3(1557)年には、関口義広の娘で義元の姪にあたる瀬名姫(後の築山殿)と結婚し、永禄2(1559)年には長男・信康を授かっています。

 

今川家の一族に準ずる立場になった松平元信ですが、三河の領民や松平家の家臣たちは今川家の命には逆らえず、かなりの苦労をしたようです。

 

この年、鹿児島でフランシスコ=ザビエルがキリスト教布教をはじめます。

 

 

■父・信秀の死

 万松寺
 万松寺

天文20(1551)年、信長18歳。

3月3日、末森城で信長の父・信秀が流行の病で死去。享年42歳でした。(没年諸説あり)

 

この万松寺で葬儀が行われますが、国中の僧侶や旅の修行僧なども含め、僧侶の数だけで300人にも及ぶ、盛大な葬儀だったようです。


そして、この葬儀で、信長の“あの”有名なエピソードが、展開されます。
この葬儀には、信長はもちろん多くの親族や家臣が参列しました。この親族の中には当然ながら、弟の勘十郎信勝(一般的には信行と呼ばれています)も参列。信勝は礼にかなった、肩衣・袴を着用。(今で言えば、礼服に黒いネクタイをきちんと着けて参列したというところでしょう)


一方の喪主である信長は、葬儀が始まっても現れません。一族や家臣がやきもきしながら待っていました。ところが、ようやく現れた信長は、袴は着用していないうえ、長柄の大刀と脇差をわら縄で巻き、髪は茶せん巻きにした姿でした。(今で言うと革ジャンにチェーンをチャラチャラぶら下げ、髪の毛は茶髪や金髪といったところでしょうか?)その姿で焼香に立ったと思ったら、なんと焼香を鷲づかみにして、仏前へ投げつける始末。


多くの人が「あの大うつけが!」と非難し、「それに引き換え弟の勘十郎はなんと立派なことか・・」と口々にうわさしあったようです。
しかし、そのような中『信長公記』による、筑紫から来た旅僧が「あの方こそ国持ちの大名になるお人だ」と言ったそうです。


信長はなぜこのような行動をとったのか?信長なりの悲しみの表現だったか?または、こういう葬儀のような形式ばったしきたりすら、否定的だったのか?その真意は不明です。
もしかしたら、この後すぐに起こるであろう家督争いをにらみ、うつけを装い誰が真の味方か?見極めるための策だったかもしれませんね。こんな行動をする人間を支持しようなんてなかなか思えませんからね。
ちなみに信秀の死後、その居城・末森城は弟の信勝に譲られることになります。