【信長史】1562 清州同盟

■信長と松平元康の再会

永禄5(1562)年、信長29歳。

この年、戦国時代を終結させる二人が再会します

1月15日、松平元康(後の徳川家康)は自ら清洲に赴きます。前年、両家は和睦し織田家から水野信元、松平家からは石川数正が代表となり水面下で同盟交渉を行っていました。


最終的な同盟締結の儀式を済ませるのみという段階ではありましたが、互いの家臣の中には依然敵視する者もあり、元康は織田方の謀略で命を狙われる可能性もある危険な状況でした。

 

清洲城で再会した信長と元康ですが、尾張で人質生活をしていた元康(当時竹千代)が今川家に送られてから13年ぶりのことでした。そしてこの同盟締結の場に信長と元康の他もう一人仲介役の水野信元が加わります。
この時、「今ヨリ水魚ノ思ヲナシ、互ニ是ヲ救ン事聊モ偽リ有ベカラズ」という起請文を交わし、『牛』という字を記した誓紙を三等分に分けそれぞれが飲み同盟が成立します。

 

ちなみに仲介役を務めた水野信元は織田家に仕えていましたが、元康の生母・於大の方の異母兄ということで、元康の叔父という立場で仲介役にはふさわしい人物でした。ただ、元康が母・於大の方と引き離されてしまった原因は信元が織田に従ったためといわれており、元康としては複雑な気持ちだったかもしれません。


同盟成立により、信長は美濃攻略に全力を注げるようになり、元康も三河の統一と対今川に専念出来るようになりました。

この同盟の後、元康は名を改め、松平家康と名乗ることになります。義元から拝領した“元”の一字を捨てることで、事実上今川家との決別を宣言したといえます。


この織田と松平の同盟に当然ながら駿河・遠江を治める今川義元の死後、家督を継いでいた氏真は激怒し、翌永禄6年7月、松平・今川は絶縁。今川家に人質状態となっていた松平家臣の家族の多くが磔の刑に処されたそうです。

 

 

この年、尾張国愛知郡中村で加藤清正が誕生します。