【信長史】1578② 荒木村重の謀反

■信長の右大臣・右大将辞官

天正6(1578)年4月4日、謙信の死から二十日余りのこの日、謙信の死を確信したのか、信長は織田信忠を総大将とした尾張・美濃・伊勢の軍勢、および五畿内の織田軍に大坂攻めを命じます。従った武将は北畠信雄や神戸信孝・津田信澄・長野信包ら織田一門衆や滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らでした。

5日、6日のわずか二日間の総動員で、大坂の本願寺領の麦畑をなぎ倒してすぐに退却したそうで、本願寺兵糧攻めの一環としての出陣だったようです。

7日、信長は、神保長職と対立し越中から追放されていた息子・神保長住を二条新邸に招き、佐々長秋(成政の弟)・武井爾伝を通じ黄金黄金百枚などを与え、謙信死去に伴う越中攻めについて協議します。この話し合いで、神保長住の護衛に佐々長秋と飛騨の三木自綱を加える形で越中攻めの準備が進められます。

9日、信長は、突如、右大臣・右近衛大将の官を辞します。ただし、正二位の位階だけは保持し、散位という執掌を持たない位階だけの立場になります。

『兼見卿記』によれば信長は官の理由を「征伐が終わっていないので、天下を平定後あらためて勅命に応じます」というような内容のことを語ったようで、さらに信忠に顕職を譲りたいと考えていたようです。

10日、丹波へ向け、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らが攻め入ります。この時の標的は園部城の荒木氏綱。城に籠もり抵抗を続けますが水路を絶たれ援軍も望めない状況に陥り氏綱は二週間ほど抵抗したものの降伏。城を明け渡し退去します。

4月22日に京から安土に帰国していた信長ですが、数日後、再び上洛することになります。既にふれたように毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が率いる毛利軍が動き出し播磨の上月城を包囲したという報告が入ったためでした。

 


■信長の中国出陣中止

27日、上洛した信長は、自らが出陣し「東国の織田と西国の毛利と直接切り結び、必ず打ち勝ち東西の境界に決着をつける!」と言い出しますが、佐久間信盛や滝川一益・明智光秀らが「まずは私どもが出陣し現状を見定めます」と進言します。


29日、進言を受け入れた信長は、先陣を滝川・明智・丹羽に命じ出陣させます。


5月1日、信忠を総大将とした信雄・信孝・信包および細川藤孝・佐久間信盛らの本隊が出陣。

6日、信忠率いる本隊は播磨の大窪に本陣を据えます。先陣の滝川一益・明智光秀・丹羽長秀は、三木城の支城である神吉・志方・高砂をにらむ嘉古川(加古川:兵庫県加古川市)付近に陣を敷きます。

 

毛利軍に包囲されている上月城救援のため高倉山に布陣している秀吉軍と合わせた織田軍の総勢は4~5万だったといわれています。対する毛利軍は約3万。


秀吉は、信長本隊の到着を待ち一気に毛利氏と決着をつけようと考えていましたが目論見は大きく狂います。

11日、信長は13日の出陣をめざし準備を進めていましたが、この日京都周辺が豪雨に襲われ賀茂川・白川・桂川が氾濫し12・13日に渡り洪水となり多くの死者を出すという被害を受け出陣は取りやめとなります。

しかし、出陣の命を受けていた京周辺の信長配下の将兵はどのような状況でも信長が出陣と決めたからには出陣するであろうと思い数百隻の船を用意し待機していました。それを知った信長は大いに喜んだそうです。

24日、秀吉の命を受けた竹中半兵衛重治が信長へ戦況報告のために上洛。
備前八幡山の城主(浦上氏家臣の小坂氏?)が織田方に付いたことを告げます。
信長はこの恩賞として秀吉に黄金百枚、半兵衛には銀子百両を与えます。

27日、この報告を受けながらも信長は出陣することはなく、安土の洪水被害の視察のため帰国してしまいます。

6月10日、信長は再び上洛しますが、出陣のためではなく祗園会の見物のためでした。


14日、祗園会当日。これを見物した信長ですが、このとき馬廻り衆や小姓衆には「弓・槍・長刀ほか武具を携えること無用」と命じ、このあと、わずか10人ほどの小姓衆を従えたまま鷹狩りに出かけてしまいます。

16日、しびれを切らせた秀吉は、ついに自ら上洛し、信長と対面。
信長の出馬・毛利との決戦を主張したかはわかりませんが、信長は秀吉に「高倉山の陣を引き払い信忠と共に神吉・志方を攻略し、その後三木城を攻めるよう」命じます。

 
これは毛利軍に包囲されている“上月城の尼子勝久や山中鹿介らを見捨てよ”という非情の命令でもありました。
秀吉は、信長の命とあっては逆らうこともできず、直前の命令違反行為(無断で戦列を離脱)もあり承諾せざるを得ませんでした。

重ねて大津長治・水野九蔵・大塚又一・長谷川秀一・矢部家定・菅屋長頼・万見重元・祝重正に交替で検視役を務めるよう命じます。ちなみにこれらはほとんどが信長の馬廻り・小姓衆です。

21日、信長は出陣することなく安土に帰国してしまいます。この時信長が出陣していればのちの凶事はもしかしたらなかったかもしれません。

 


■尼子家の滅亡と山中鹿介の死

6月26日、秀吉は、信長の命により毛利軍に包囲されている尼子勝久・山中鹿介幸盛らが籠城する上月城の救援を断念し、高倉山の陣を引き払い織田信忠の陣へ向け軍を動かします。

7月3日、織田家の援軍をあきらめた尼子勝久は、ついに切腹して果てます。この時多くの家臣が勝久と共に切腹して果てます。しかし、山中鹿介はなおもあきらめず抵抗を続けます。

5日、主人を失った城兵は抵抗を断念し、山中鹿介も毛利方に投降上月城は陥落します。鹿介が自害しなかった理由は諸説ありますが、勝久が鹿介に「生き延びて必ず尼子家を再考せよ」と命じたともいわれています。


しかし、鹿介を捕らえた吉川元春は、これを生かしておけば必ずや毛利家の災いとなると判断し密かに家臣に殺害を命じます。

毛利本国に護送中、備中(岡山県)の甲部川(高梁川)と成羽川の合流地点の合いの渡しという場所に差し掛かったところで、元春の命を受けた河村新左衛門が鹿介に切りかかります。浅手を負ったのみでかろうじて逃げ出した鹿介は川に飛び込みますが、追っ手が迫ります。
福間彦右衛門元明という者が、ついに鹿介に追いつき川の中で取っ組み合いとなりますが、傷を負っていた鹿介はついに力尽き殺されてしまいます。尼子家再興を志した山中鹿介幸盛、享年34歳でした。

大名家としての尼子家再興の夢はかないませんでしたが、永禄9(1566)年、尼子義久の代に毛利元就に降伏して義久とその弟たちは既に毛利氏のもとに軟禁状態ではありましたが存命でした。のちの天正17(1589)年に、義久は毛利氏の客分となり館を与えられ、弟の子・元知を養子とし子孫は生きながらえることになります。

 


■神吉・志方城攻め

6月26日、上月城から撤退した秀吉は書写山(姫路市)まで軍を進めます。
同じ頃、織田信忠は、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀に命じ神吉城をけん制する為、三日月山(佐用郡三日月町)に登らせます。

27日、神吉城には信忠以下神戸(織田)信孝・林秀貞・細川藤孝・佐久間信盛が布陣。先陣として滝川一益・稲葉一鉄・蜂屋頼隆・筒井順慶・武井舜秀・明智光秀・氏家直通・荒木村重らが攻めかかります。
一方、志方城の備えとして北畠(織田)信雄以下丹羽長秀・若狭衆があたります。
織田方の総攻撃に対し、神吉城兵の反撃も凄まじく簡単には落城しませんでした。織田方にも死傷者が続出、信孝も手に深手を負います。

 
28日、この日も攻撃を続け、堀を埋め立て築山を築きさらに攻撃を加えます。
その頃、秀吉は但馬に立ち寄り、竹田城に弟・羽柴秀長を入れると再び書写山に布陣。

神吉城では苦戦が続き、長野(織田)信包、さらには志方城に備えていた丹羽長秀以下若狭衆も動員し攻め立てます。こうして大砲を打ち込んだり坑夫に隋道を掘らせて攻めるなど昼夜を問わず攻め続けます。
凄まじい攻撃に神吉城からはついに詫びを入れ降伏を申し出てきますが、信長の命もあり聞き入れられず、織田方の攻撃はさらに激しさを増すことになります。

 

29日、安土の信長は戦況報告を受け、信忠率いる織田軍が攻めている神吉城(加古川市)の西方の高砂(高砂市・姫路方面)と東方の明石のさらに京寄りの兵庫に織田軍が配備されていないことを懸念し、毛利水軍に備えるため津田信澄(信長の弟・信勝の嫡男)に山城衆を付け小姓筆頭の万見仙千代を派遣します。

仙千代は、陣を構築すると後の采配を信忠に託し、自らは信長の下へ帰還し状況を説明します。

7月15日、信忠は、決着をつけるべく、神吉城への総攻撃を各部隊に命じます。夜になり、まず滝川一益・丹羽長秀隊が神吉城東の丸へ突撃を開始。

16日、神吉城主・神吉則実が立てこもる中の丸に攻め込み討ち取り、天守に火をかけます。織田軍と神吉軍が大乱戦を繰り広げる中、天守は焼け落ち神吉城兵のほとんどが討ち死。

さらに西の丸には荒木村重隊が攻め込み神吉藤大夫を追い詰めます。藤大夫は降伏を申し入れます。佐久間信盛と村重は、信長の許可を得て降服を聞き入れます。降伏した神吉藤大夫は西の丸を明け渡すと志方城に退去します。


志方城は織田軍の攻撃をさらに受け続けますが、勝ち目がないと判断し人質を差し出し降伏。推測ですが、神吉藤大夫が志方の城兵を説き伏せたのかもしれません。

資料によっては神吉城攻略が7月20日とされているものもあるので、決着が付いたのは20日頃だったのかもしれません。

明け渡された神吉・志方両城は羽柴秀吉が受け取ることになり、いよいよ三木城の別所長治を攻めることになりますが、こちらも苦戦を強いられることになります。

 


■九鬼・鉄甲船団の初陣 淡輪沖海戦 

 九鬼嘉隆
 九鬼嘉隆

6月26日、織田信忠率いる織田軍が神吉城を攻めているその時、東の伊勢(三重県)から出航した、対毛利水軍の秘策とも言うべき織田水軍が熊野灘を航行していました。

織田水軍の陣容は、九鬼嘉隆率いる大船6隻。滝川一益率いる白船1隻。九鬼嘉隆の大船は、いわゆる信長が発案した鉄甲船として有名ですが、『信長公記』にも他の資料にもその特殊性が記載されておらず、よく引用される興福寺の多聞院英俊の『多聞院日記』の一節に“鉄の船なり”として書かれているのみです。

大船は鉄板で装甲されていたと考えられ、これはどうも当時としては既に珍しいものではなかったようです。それよりも特殊だったのは、船の大きさとその装備。大砲を備え、さらには銃身の長いの鉄砲も据え付けられていたようです。ただ大砲に関しては命中率は悪かったようで、主に威嚇用としてその力を発揮したのではないかと思われます。

ちなみに滝川一益の白船とは、鉄甲船とは違い、中国式の船をさすと考えられます。

さて、その織田水軍が熊野灘から大坂・堺港に向かっているところを淡輪沖で雑賀・丹和(淡輪)の浦々から本願寺方の水軍が入港阻止のため攻撃を仕掛けてきます。

本願寺方の水軍の船は小型で、そこから鉄砲や矢を打ちかけてきますが、織田水軍は動じることなく十分引き寄せては大砲や大型の鉄砲で反撃し、本願寺水軍を撃破していきます。織田水軍の船の大きさと大砲のごう音により、萎縮した本願寺水軍は総崩れとなり、退却を余儀なくされます。

7月17日、織田水軍は悠々と目的の堺港に入港します。入港した大船を見物した多くの者は、仰天したそうです。

18日、大坂沖にて本願寺方に物資を運び入れていた毛利水軍の入港阻止のため鉄甲船団は海上封鎖の任務に就きます。

信長自身はこの約2ヵ月後の9月30日、堺まで出向き、この大船を見物します。そのとき大船は旗指物や幟・幕などで飾り立てられ、港はお祭り騒ぎだったそうです。

 


■南部政直、信長に謁見

8月5日、南部政直(宮内少輔季賢)が五羽の鷹を信長に献上するため安土までやってきます。信長は小姓の万見仙千代(重元)に接待役を命じます。

 

この南部政直は安東(秋田)愛季の家臣で、南部利直の次男・政直はまだ生まれていないので別人になりますが、おそらく同じ南部一族と思われます。なぜ安東氏に仕えていたかは不明。ただ、『信長公記』には、“陸奥津軽”(青森県)の南部政直とかかれており、もしかしたらこの頃、政直は南部晴政に仕えていたのかもしれませんが不明な点が多いです。


10日、南部政直は、万見邸に招かれ接待を受け、このとき、信長に挨拶をします。

この頃の東北地方は、政直の仕える安東氏の他、南部晴政や津軽氏・伊達氏・最上氏・蘆名氏等々、多くの群雄が割拠し、依然有力な支配者がいない状況でした。

既に、この3年前の天正3年には伊達輝宗(政宗の父)が信長に名馬を献上しており、安東愛季も中央の権力者である信長に近づくことで、東北での戦いを有利に進めたいという思惑があり南部政直を派遣したものと思われます

四国の長宗我部元親も天正3年に嫡子・信親の烏帽子親を信長に頼み友好を深め、九州の大友義鎮(宗麟)や島津氏も信長との友好関係を築いていました。

このように東北から九州・四国に至る日本全国に信長の武威は知れ渡っている状況で天下統一は間近に迫っていました。

 


■越中・月岡野の合戦

9月、信長が大坂・堺で鉄甲船の検分をしている頃、北陸・越中でも織田軍の動きがありました。


上杉謙信が死去してから約半年、上杉家中は『御館の乱』が勃発。養子の景勝と景虎が後継者争いを繰り広げていたため越中方面まで手が回らない状況になっており、この機に乗じ、信長は越中攻略を進めます。

越中では神保氏と椎名氏が争っていましたが、神保長職の嫡男・長住は、父に追放され信長に庇護を求めていました。
この頃には既に長職は死去していて、越中は上杉方の所領となっていましたが、長住は帰国の機会をうかがっていました。

神保長住は織田軍の越中侵攻を控え先に入国し、国内の一族・旧臣さらに国衆らに働きかけ織田軍に付くよう説得して回ります。この説得に上杉方の斎藤信利兄弟・菊池武勝・屋代一族・神保長張らが応じます。しかし、依然、越中・今和泉城では河田長親や椎名小四郎道之が抵抗の姿勢を見せていました。

9月24日、調略を断念した信長は斎藤新五郎に越中攻めを命じます。この新五郎は斎藤道三の末子で甥の龍興を早々と見限り織田家に従っていた人物です。

越中入りした新五郎軍は、南部の津毛城(上新川郡大山町)に籠もる上杉方の河田・椎名軍に迫りますが、織田軍侵攻を知った城兵は、たいした抵抗もなく逃げ去ってしまいます。この空き城に神保軍を入れると新五郎はさらに軍勢を進めます。

10月3日、河田・椎名の主力が立て籠もる今和泉城に迫ります。太田保内の本郷に本陣を構えた新五郎軍は、敵の籠城を避けるため一計を案じます。城に火を放ちすぐさま兵を引くことにします。籠城していても敗北は必定。城兵は打って出ることを決意。新五郎軍の挑発に乗ります。

新五郎軍は、本陣を捨てさらに退却していきます。河田・椎名はさらに追い続けますが、月岡野という扇状地に差し掛かったところで突如、新五郎軍は反撃に出ます。戦いに有利な地まで敵をおびき出した新五郎軍は、優勢に戦いを進め360もの敵兵を討ち取り河田・椎名軍は総崩れとなります。

そして、この戦いの間に織田方に寝返った、蛇尾城(じょうのおじょう:八尾町)の斎藤信利兄弟が今和泉城を攻略します。
見事な作戦で、織田軍は越中の大半を占拠することになりました。

 


■荒木村重の謀反

10月21日、堺での鉄甲船団の視察を終え、安土に帰国していた信長の下へ予期せぬ知らせが届きます。

「荒木村重が謀反を企てている」

この報を受けた信長は驚きと共に、この情報が本当なのかどうか疑い、ただちに松井夕閑・明智光秀・万見仙千代を荒木村重の下へ派遣し、真偽を確かめさせます。

村重は使者に対し、「事実無根、謀反の意思はない」と説明しますが、「真であれば母親を人質として預け、出仕せよ」との命令には従いませんでした。

結局、村重は叛旗を翻し、居城である有岡城に籠城してしまいます。尼ヶ崎城主で嫡男の村安(光秀の娘婿)、さらに茨木城主で従兄弟の中川清秀、高槻城主の高山右近もこれに同調し、信長に叛旗を翻します。

謀反の理由は定かでありませんが、「半年以上前から毛利方と通じていた」とか、「従兄弟で与力の中川清秀の家臣が、包囲している本願寺へ米を密かに売っている」という噂が流れ、弁明のため出仕するつもりだったが、家臣に「疑われたからには弁明しても無駄。出仕すれば殺されてしまうから謀反するしかない」と説得されたなど言われていますが、いずれも推測の域を出ないようです。

村重の謀反は、対本願寺・毛利戦略を大きく揺るがすものになりました。

この年2月には別所長治が謀反し、丹波では赤井氏や波多野氏が抵抗をつづけている状況。これに摂津の村重が謀反したとなっては、播磨の秀吉は、完全に孤立し、西国は完全に毛利氏勢力下になってしまい、天下統一が完全に頓挫する危機をはらんでいました。

信長は、この危機を脱するべく、村重のもとへ使者を送り説得を続けます。しかし、村重が翻意することはありませんでした。

11月3日、説得をあきらめた信長は、有岡城の村重を討つべく安土城を出発。京・二条新邸へ入ります。さらにここで、再度、明智光秀・松井夕閑・羽柴秀吉らを使者として送り、最後の説得を試みますが、不調に終わってしまいます。

この頃、摂津の各城・砦には、本願寺攻めの監察役として、信長の小姓衆や馬廻衆が派遣されていましたが、村重の謀反により“人質状態”になってしまいました。しかし、村重は速やかに解放し、この時、長男・荒木村安の妻となっていた光秀の娘も離縁され送り返されました。