【信長史】1561 美濃攻めの始まり

■信長の三河攻め

永禄4(1561)年、信長28歳。

4月、信長は元康の所領三河(愛知県東部)に侵攻。手始めに、梅ガ坪城(豊田市)を攻めます。城の周辺の麦畑を焼き払い三河方の兵を追い詰めます。三河方の兵も城より出て応戦、足軽合戦となります。

 

この戦いの最中、織田方の前野長兵衛が討ち死にします。そんな中、織田方の平井久右衛門が、巧みに矢を射たので、敵方の三河勢からも賞賛され、信長も感嘆し、豹の皮の大靫(オオウツボ:矢を入れる武具)と芦毛の馬を褒美に与えたそうです。織田勢はこの日、野営。

 

翌日、高橋郡(豊田市)を同様に麦畑を焼き払い足軽による矢の打ち合いが繰り広げられます。このように野営しては別の地を攻める形で、伊保城・矢久佐城と次々と織田軍は攻め進み、現在の豊田市地域の麦畑を焼き払い、織田勢は帰陣します。

 

この後、織田家と松平家はいったん和睦し、尾張・三河の国境を定め戦闘を終結させます。しかし、この時点では、まだ同盟には至っていませんでした。


この年、秀吉(当時、木下藤吉郎)とおね(後の北政所)が結婚。

東では武田信玄と上杉謙信による四回目の川中島の合戦が繰り広げられ信玄の弟・典厩信繁や山本勘助らが討ち死にします。 

 

 

■斎藤義龍の死

 斎藤義龍
 斎藤義龍

5月11日、美濃の斎藤義龍が急死します。35歳という若さでした。あとを継いだのは嫡男・龍興、若干14歳。

 

5月13日、これを好機と捉え信長は、すかさず美濃攻めを開始します。木曽川と飛騨川(長良川)を越え、西美濃へ侵攻。勝村に陣を張ります。

 

14日、雨の中、龍興配下の長井甲斐守と日比野清実を大将とした斎藤軍が森辺に出陣してきます。数時間にわたる戦いの結果、織田軍は長井・日比野をはじめ百七十人余りを討ち取り勝利を収めます。


日比野の配下に「首取り足立」と呼ばれる足立六兵衛という猛将がいましたが、これを前田利家が討ち取ります。この首を含め、この戦いで二つの首を取った前田利家は、桶狭間の合戦以前より受けていた譴責処分をようやく赦免されます。利家は桶狭間合戦の序盤に一つの首を上げ、今川勢総崩れの際にも二つの首を取りながら、織田家帰参が許されなかっただけに大いに喜んだと思われます。織田軍はこの勝利で洲の俣(墨俣)の地を押さえ、ここに砦を築き駐留します。(もともとあった砦を補修したものと思われます)

 

23日、斎藤軍は井口(稲葉山城)より大軍を繰り出し、十四条に陣を構えます。織田軍もただちに洲の俣より出撃し合戦となりますが、敗れて撤退します。
斎藤軍は一気に北軽海まで進出してきます。この動きを見て信長も西軽海へ移動し斎藤軍と対峙します。合戦になりますが、その戦いは夜になっても終わりませんでした。池田恒興や佐々成政の活躍もありましたが、決着は着かず斎藤軍は夜中のうちに撤退。


24日、織田軍も夜明けまで陣を構えていましたが洲の俣へ帰陣。

後日、洲の俣の砦を引き払い尾張へ撤収しました。

 

 

■岩室長門守の死

信長の小姓といえば真っ先に思いつくのは森乱丸(蘭丸)だと思いますが、生まれたのは永禄8(1565)年。永禄4(1561)年の時点ではまだ生まれていません。では、この頃の信長の小姓とは誰か?桶狭間の合戦のとき真っ先に信長に付き従った、岩室長門守・長谷川橋介・佐脇良之・山口飛騨守・賀藤弥三郎の5人が上げられます。


6月下旬、この小姓衆が先陣となり信長は出陣します。目標は北尾張の於久地城(小口:愛知県丹羽郡大口町)。この時期、依然、北尾張の犬山城主・織田信清(信長の従兄弟であり姉婿)は信長に服従していませんでした。尾張を完全統一するべく手始めに信清の家老・中島豊後守が守る於久地城の攻略を目指します。


小姓衆の軍が城壁を撃ち破り数時間に渡り攻めますが、信長方が負傷者を出しただけで、城を奪うには至りませんでした。この戦いで、小姓の岩室長門守がこめかみを突かれて討ち死にしました。尾張では知らぬ者はいないと言われる有能な人物で、信長の初期の小姓の中で最も寵愛されていただけに信長はその死を大変惜しんだそうです。

 

この年、信長の次女・冬姫が誕生。ただ永禄元年生まれ説もあり、これに従うと長女ということになります。冬姫はのちに蒲生氏郷に嫁ぐことになります。

そして同年、のちの関ヶ原合戦で中心となって活躍する石田三成や福島正則・井伊直政・吉川広家らが誕生します。