【信長史】1553 平手政秀の死

■平手政秀の諌死

天文22(1553)年 閏1月、信長20歳。

信長の最も信頼していた傅役の平手政秀が切腹して果てます。 

『信長公記』によると、「信長公を守り立ててきた甲斐がないので、生きていても仕方がない」という理由での自害だったようです。

信秀の死後、いっこうに改まらない信長のうつけ振りに落胆し、自分の傅役としての力不足を感じ、死を持って信長を諌めようとしたようです。


ただ、他にも要因があるようで、この切腹の前にちょっとした事件がありました。政秀には三人の息子(長政・監物・汎秀)がいましたが、長男の長政が名馬を持っていました。それを信長が所望しますが、長政はこれに応じませんでした。これを根に持った信長と長男・長政が不和になってしまい、こんなことも政秀を悩ませていたのかもしれません。


政秀は、幼くして両親と離れ那古野城主となっていた信長にとって、ただの傅役ではなく、父親みたいな存在だったと思います。その政秀の死は、もしかしたら父・信秀の死より悲しいことだったかもしれません。


しかし、さすがは?信長、この状況でもまだ行状を改めませんでした。ここまでくると本当に「うつけ」なんじゃないかと周囲の家臣や領民たちも思っていたようで、この噂は近隣諸国にも広がります。やがて美濃の国主である舅の斎藤道三の耳にも「信長は“真の”うつけ」であると伝わることになります。
そして、信長と斎藤道三の初対面となる有名な「正徳寺の会見」を迎えることになります。

 

 

■正徳寺の会見

 斎藤道三
 斎藤道三

平手政秀の死から約3ヵ月後の4月下旬、突如、舅の斎藤道三から信長に対面したいという知らせが届きます。

 

天文17(1548)年、斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)と結婚してから約5年。この時まで道三と信長は一度も会ったことがありませんでした。意外に思うかもしれませんが、戦国時代には特に珍しいことではなかったようです。


前述のように、「信長が大うつけ」であると周りが騒ぎ立てるので、道三はそうではないと口では言いながら、少々不安になったのか自らの目で真偽の程を確かめようと思ったようです。道三の申し出に信長は、斎藤家の謀略の可能性もあるのに迷うことなく承諾します。


場所は、富田の正徳寺(聖徳寺:愛知県一宮市)にあり、美濃と尾張の守護の許可状を取って税を免除されている


『信長公記』によると、道三方は、古老の者7~800人ほどに折り目正しい肩衣・袴姿の上品な格好をさせ正徳寺の御堂の縁並んで座らせ、その前を信長が通るよう準備し信長の度肝を抜こうという魂胆だったようです。


そして道三自らは、町はずれの小屋に隠れ信長の行列を覗き見します。
その時の信長の格好は、父・信秀の葬儀の時を思わせるような、髪は茶せん、湯帷子(ゆかたびら:入浴の際に着用する浴衣みたいなもの)を袖脱ぎにし(上半身裸か片側だけ脱いだ状態)、大刀・脇差をわら縄で巻き、太い麻縄で腰の周りに火打ち袋やひょうたんをいくつもぶら下げ、袴は虎と豹の皮を四色に染め分けた半袴だったようです。『老人雑話』という江戸時代の書には信長の着物に大きな“陰茎”ようするに“チンチン”が染め抜かれていたという話もあります。信長らしい??


信長方の行列は、道三方と同様、7~800人。しかし、その装備がすごく、柄の長さ三間半(約6.4m)の朱槍500本。弓・鉄砲隊500挺を持たせ、行列の先頭を元気な足軽を走らせたそうです。


弓・鉄砲隊500挺のうち、鉄砲(火縄銃:種子島)をどのくらい持っていたかは不明ですが(弓も鉄砲も500挺ずつとも考えられる)、1543年に種子島へ漂着したポルトガル人が伝えてから、わずか10年後のことで、まだ合戦用の武器としては定着していない時期で、早くもそれを装備していた信長軍を見て、道三も驚きます。


また、1549年にまだ家督を継いでいない時期に信長が500挺の種子島銃を注文したという史料もあり、ポルトガル人から種子島領主が2挺の銃を一挺1000両で買ったという話から考えると、500挺の銃は莫大な金額だったはずで、父・織田信秀が作り上げた財産はものすごいものだったと思われます。

 

20歳の信長と推定60歳の道三の対面のときを迎えます。対面の直前、信長は見事な変身を遂げます。生まれて初めて髪を折り曲げに結い、褐色の長袴をはき、小刀を差し、見事な正装に着替えました。

 

これを見た家中の人々は、日頃のうつけぶりはわざと装っていたのかと肝をつぶしたようです。準備を整えると信長は対面の場に向かいます。道三の家臣・春日丹後と堀田道空が信長を出迎えますが、無視して諸将が居並ぶ前を平然と通り抜け縁の柱に寄りかかってしまいます。行動はまだうつけのままだったようですね。


しばらくして、屏風を押しのけ道三が出てくるも知らん顔の信長。道三の家臣・堀田道空が「こちらが山城守殿でございます」というと、「おいでになったか」と言って敷居内に入り、道三に挨拶をし座敷に座りました。
一説には堀田道空の言葉に「そうであるか(または、“であるか”)」と答えたようで、普通ならば「そうでございますか」と答えてしまいそうですが、一国の主として、道三を目の前にしても信長は堂々としていたようです。


この後、湯漬けをともに食したり、盃を交わしたりし対面の儀はとどこおりなく終了し、道三は「また近いうちにお目にかかろう」と言い残し退席したようです。


信長は道三の帰りを20町(約2.2km)見送ったようですが、このとき織田勢と斎藤勢の行列がともに行軍する状況になり、斎藤勢の装備に比べ織田勢の長槍や弓・鉄砲の装備など見事だったため道三は面白くなさそうな顔で帰ったようです。


そして、その道中、茜部(あかなべ)というところで、近臣の猪子高就が「どうみても信長は大うつけでございますな」と言ったそうですが、それを聞いた道三は「だから無念だ。わしの息子たちが必ず、あの大うつけの門前に馬をつなぐ(家臣になる)ことになるだろう」と言ったそうです。
この言葉は、この後的中し、道三の死後、信長の手によって斎藤家嫡流は滅ぼされますが、道三の末子で、道三の跡を継いだ義龍の弟と思われる斎藤新五は、信長の家臣として後に活躍することになります。

 

この月、武田信玄と上杉謙信の有名な戦い「川中島の戦い」が始まります。