【信長史】1571 比叡山焼き討ち

■箕浦の合戦

元亀2(1571)年、信長38歳。 

信長は冬の間、じっくり作戦を練り雪解けを待ち動き出します。信長がまず行ったのは調略による浅井軍の切り崩しでした。

 

2月24日、前年6月下旬から包囲していた佐和山城の城主・磯野員昌が降伏し、織田家に臣従を誓います。これは調略による浅井家からの離反でした。佐和山城には包囲軍の大将格であった丹羽長秀が城代として入ります。


これにより小谷城の南方の主要な城が織田方の手に渡ることになり危機的な状況になった浅井長政が動き出します。長政がまず狙ったのは小谷城から一番近くにある秀吉(当時、木下藤吉郎)が守る横山城でした。長政は、横山城近くに陣を張ります。そして、城にこもる秀吉を場外におびき出すためか、または横山城を孤立させるため、城の南方にある織田方の鎌刃城を家臣の浅井七郎井規に攻めさせます。鎌刃城を守るのは堀秀村と樋口直房以下500足らずの兵でした。

一方の浅井井規が率いる軍勢には一向一揆も加わり5000に膨れ上がっていました。横山城の秀吉はこの報を受け出陣を決意するも、目の前には浅井長政の本隊が陣を張っていて動けない状況でした。そこで秀吉は城兵のほとんどを城に残し、自ら精鋭100騎のみを率いて出陣します。ちなみにこの時、横山城の城代を任されたのは竹中半兵衛重治でした。


秀吉は浅井勢に気づかれないよう山の裏道を進み、堀・樋口軍と合流します。それでも依然10倍近い兵力差がありましたが、浅井井規が率いる兵の多くが一揆勢であったらしく組織もまとまっていなかったので、秀吉は積極的に攻めかかります。
箕浦の下長沢というところで激しい戦闘になり、この一戦で樋口の家臣・多羅尾相模守や土川平左衛門が討ち死にします。浅井・一揆勢は秀吉軍の猛攻の前に北方の本隊へ向け敗走を始めます。しかし、下坂のさいかち浜で体勢を立て直し反撃に出ます。しかし、結局抗しきれず八幡神社下まで押し込まれ、兵を撤収しました。


この間、横山城も浅井本隊の攻撃を受けていましたが、秀吉の留守を任されていたのは知将・竹中半兵衛。みごとに守りきったようです。


この箕浦の一戦。秀吉はなぜ危険を犯してまで出陣したのかというと、鎌刃を居城とする堀氏はこの地域(坂田郡)の有力国衆で堀氏を見殺しにすれば織田家に従っている江南の他の諸勢力が浅井氏に寝返る可能性もあったためのようです。

 

 

■伊勢長島一向一揆攻め・大田口での大敗

5月12日、信長は満を持して伊勢長島一向一揆討伐に出陣します。伊勢国長島は尾張との国境の木曾川・長良川・揖斐川が合流する中州にあり、川が複雑に流れ込みいくつも中州が出来ている複雑な地形でした。そして、この地にある願証寺がこの地域一帯を統括する真宗本願寺の拠点になっていました。

 

この願証寺率いる長島一向一揆が、既に触れたように前年11月、尾張・小木江城に攻め入り信長の弟・信興を自害に追い込みました。そんな経緯もあり、このときの信長の意気込みはただならぬものがあったと思われます。

 

信長は5万ともいわれる大軍を率い出陣。軍を三つに分け、信長率いる本体は津島、佐久間信盛率いる浅井政澄・長谷川丹波守ら尾張衆は中央筋、柴田勝家率いる稲葉一鉄・氏家卜全ら美濃衆は大田口より攻め込みます。川や砦などが十数ヶ所もあったようで、容易には攻め込めない状況でした。


16日、勝家の軍は大田口の村々に火を放ち兵を退こうとします。しかし、この時、山側に回りこんだ一揆勢が弓や鉄砲を撃ちかけてきます。混乱の中、柴田軍は退却を開始しますが、一揆勢が大挙して攻めかかってきます。慣れない地で足元も不安定な場所で一揆勢と混戦状態になります。


この時、一向一揆勢は「南無阿弥陀仏」と唱えながら、死を恐れず次々に攻めてきたものと思われます。


激戦の中、勝家自身も手傷を負いながらかろうじて退却。しかし、美濃三人衆の一人、氏家卜全(直元)はじめ数名の大将格の家臣が討ち死にするという織田軍の惨敗で兵を退くことになりました。

 

この敗北で信長は宗教の力を実感し、一向一揆を鎮めるためには『根切り』(根絶やし)しかないと考えたかもしれません。

 

 

■近江一向一揆の鎮圧

8月18日、信長は北近江へ向け出陣します。出陣したほとんどの将兵は、浅井長政の居城・小谷城を攻めるものと考えたと思われます。しかし、信長の狙いは、“別”にありました。桶狭間の合戦の折、誰にも本心を語らず突如出陣したように、この時も誰にも本心は告げませんでした。

 

26日夜、対小谷城の最前線、秀吉が守る横山城へ入城し兵馬を休め、中島村に陣を張ります。


27日、与語・木本一帯を焼き払うと、その日のうちに横山城へ軍勢を引き上げます。


28日、信長は横山城の南方にある丹羽長秀が守る佐和山城へ入城。すぐに先陣に命じ、一向一揆勢が立てこもる志村郷と小川郷(共に神崎郡能登川町)を攻め付近一帯を焼き払い志村城や小川城を裸城にします。


9月1日、織田軍は本格的に志村城攻撃を開始。出陣したのは佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀の四将でした。難なく城内に攻め入った織田軍は670もの敵を討ち取ります。これには浅井勢以外にも直前の焼き討ちで城内に逃げ込んだ一向一揆勢も含まれていたと思われます。


この織田軍の猛攻を知った隣接する小川城の小川祐忠は織田軍の攻撃を恐れ人質を差し出し降伏します。


3日、織田軍はさらに南下し、安土の南西にある常楽寺へ駐留。一揆の立てこもる金ガ森(守山市)を包囲。この一揆勢を指揮していたのは、本願寺の門徒・川那辺秀政でしたが、小川祐忠同様、織田軍の攻撃を恐れ人質を差し出しあっけなく降伏します。憎き一向一揆、本来ならば降伏など受け入れず皆殺しにするような状況でしたが、この時信長は降伏を受け入れます。なぜか?そうです。信長の本当の目的は“別”にあるのです。そのためには無駄な戦いは避け、兵力を温存しなくてはいけませんでした。


11日、信長はさらに南下。琵琶湖の最南端の勢田川を越え三井寺近辺(大津市)にある山岡景猶(かげなお)の守る城に入城。


12日、信長は小雨の降る中、坂本方面へ軍勢を進めます。そのまま京へ向うかに思えました。しかし、ここで信長は家臣のほとんどが反対する恐るべき命令を告げます。王城鎮護の霊場、宗教界の頂点に君臨し、時にその権威は朝廷をもしのぐといわれた比叡山延暦寺への攻撃です。

 

 

■比叡山延暦寺焼き討ち

9月12日、琵琶湖西岸の南に位置する比叡山延暦寺(現大津市)へ織田軍3万が攻め入り、焼き討ちが決行されます。佐久間信盛や羽柴秀吉(当時木下)ら多くの家臣が反対しますが信長は強行します。

 

『信長公記』には、出家の道をはずれ、色欲にふけり、生臭ものを食べ、金欲におぼれ、浅井・朝倉に加担し・・等々、この焼き討ちの正当性を主張する延暦寺の僧たちの悪行が記されています。


この焼き討ちは、麓の坂本の町への放火から始まり、15日まで続けられ延暦寺東塔や根本中堂・日吉大社(ひえたいしゃ)など山王二十一社、仏像・経巻に至るまで徹底的に焼き払われます。


比叡山下の多くの人たちは日吉大社の奥院がある八王寺山(比叡山の東)に逃げ込みました。この八王寺山へ織田軍は四方から攻め入りこの時、1200~4000人といわれる僧や子供も含めた多く老若男女が殺されます。


浅井・朝倉へ加担した延暦寺への信長の恐るべき報復でした。そして、信長へ敵対すればいかなる者も容赦なく成敗するという、信長の決意を示すための行為でもありました。この時期は、特に本願寺を意識していたかもしれません。
延暦寺焼き討ちにより信長は、多くの敵を作ることになりましたが、その一方で信長を恐れた近隣の諸勢力の中には降伏を申し出る者も現れるといった効果もありました。


そしてこの焼き討ち後、比叡山ふもとの坂本の地を与えられたのが、明智光秀でした。12月光秀は、坂本城の築城に着手します。そして、織田家中で最初の城持ち大名へと出世します。

ちなみに横山城の秀吉や佐和山城の丹羽長秀などは正確には城主ではなく在番・城代です。さらに光秀はこの時点では、まだ将軍・義昭にも仕えるという複雑な立場ですが・・・


光秀は、他の家臣が延暦寺攻めを諌める中、逆に積極的に延暦寺攻めにかかわり作戦を立案したと考えられる書状もあり、信長はこれを評価し光秀に坂本の地を与えたのかもしれません。


さらに近年の発掘調査(1981~2005年)で、この比叡山延暦寺焼き討ちの規模が疑問視されています。日吉大社の東、坂本駅周辺15箇所の調査を行った結果、未だにその焼き討ちを示す物的証拠、焦土層や焼けた建物跡・陶磁器類などが見つかっていないそうです。


大量殺戮や焼き討ちは間違いなくあったと思われますが、焼き討ちに関して言えば、当時既に「多くの僧侶は山麓の坂本に移っていて、寺院塔頭は廃絶同様だった」(『週刊日本の合戦』』№12より)ようで焼き討ちは限定的だったのではないか?というようにも言われています。真相を確かめるには山上も含めた広範囲を調査しないといけないようですね。


10月、この焼き討ちで、朝廷や公家・町衆や多くの諸勢力の反感を買った信長ですが、少しでも心象を良くしようと考えたのか、まず困窮する朝廷や公家の救済策を実施。内裏の修復を実施。宮中の米を町人に貸付、その利息を毎月献上させる施策を実施します。さらに領国内の関所の撤廃を大々的に実施(一部では既に実施していました)。領国を行き交う人々を喜ばせました。

 

 

この年、信長の六男・大洞(のちの信秀)や丹羽長秀の嫡男・長重、誠仁親王の子・和仁(のちの後陽成天皇)が誕生。

一方、6月14日に安芸・郡山城にて中国地方の雄・毛利元就が75歳で死去。同じ月23日には薩摩の島津貴久が58歳で死去します。そして、10月には小田原の北条氏康も57歳で死去。戦国時代は大きな転換期を迎えようとしていました。

 

そして、8月、中国地方では毛利家の吉川元春らが尼子氏を攻め尼子勝久や山中鹿介らが敗れ京へ向かっています。のちに信長の援助を受け尼子家再興を目指すことになります。