【信長史】1563 小牧山築城

■小牧山城への移転

永禄6(1563)年、信長30歳。

信長は清洲から小牧山へ居城を移すことを決めます。この地へ本拠を構えることは眼前の敵である犬山城の織田信清に対するためであると共にその北の美濃・斎藤氏攻略の布石でもありました。

 

清洲は尾張の中央にあり富裕な土地で、この地を離れることになると家臣・領民からかなりの反発が出ると予想されました。そこで信長は策を用います。


まず、二の宮山(愛知県犬山市)という高山に家中の者を同行させ登ります。そこで突如、「この山に築城する」と言い出し、家臣らに具体的に指示を出します。後日、再び登り、改めて命令を出しました。


当然ながら、家臣・領民は便利で住み慣れた清洲から不便な山奥に引越しすることに不満を抱きました。信長は家中の意見を聞きますが当然の如く反対意見が続出。反対の者が多いようなので再検討をした結果、二の宮山はやめて小牧山(愛知県小牧市)に築城すると言い出しました。

 

家臣・領民らは、清洲よりは不便ですが、二の宮山よりは便利な小牧山なら良いと、信長の気が変わる前に急げと言わんばかりに喜んで引越しをしました。人間の心理をついた見事な作戦でした。


小牧山のわずか二十町(約2.2km)先には、敵対する織田信清方の於久地城がありました。於久地城主の中島豊後守は、山の上に城が築かれていく状況を見て守りきれないと判断し、於久地城を明け渡し犬山城の織田信清と合流し立て籠もることになりました。

 

この年、細川忠興と明智光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)が誕生します。のちに結婚することになる二人ですね。

また、三河では賤ヶ岳の七本槍の一人である加藤嘉明も誕生します。