【信長史】清州の乱

■村木城攻め

天文23(1554)年1月、信長21歳。

今川勢に占領されていた村木城(知多郡東浦町)を奪還するべく出陣準備を進めます。

 

しかし、この時点で依然尾張統一を果たしていない信長は、村木城攻めの間に敵対する清洲勢が那古野へ攻めてくることを警戒します。
そこで信長は、舅の斎藤道三に援軍を要請します。そして派遣されたのが、安藤守就。一千の兵を率いて尾張に向け出発します。
このとき安藤守就やその他主だった者5人ほどに、道三は「見聞した状況を毎日報告せよ」と命じます。


20日、信長は到着した安藤守就率いる斎藤勢に那古野城近くの志賀と田幡の2箇所に陣を設営させます。このとき信長自ら陣に足を運び、安藤守就に挨拶をしました。謀略によって美濃一国を乗っ取った道三が、裏切って那古野城を奪う可能性もあったにもかかわらず信長の行動は大胆なものでした。


22日、後顧の憂いがなくなった信長は強風の中を強引に海を渡り出港。村木城周辺の状況を調べさせます。この結果かなりの堅固な城であることが判明。


24日、夜明けとともに、村木城攻めを開始します。このとき信長はもっとも攻めにくい場所を自ら指揮します。信長自身が指揮を取っていたため、兵も必死になり次々攻めかかりますが、その分犠牲者も多数出る始末。この攻撃の時、信長軍は鉄砲をとっかえひっかえ撃ちまくったそうです。後の長篠設楽原の合戦を思わせる戦いぶりでした。


別の攻め口から、叔父の織田信光の配下が一番乗りを果たし城内へ攻め入り、村木城の駿河勢も崩れ始めますが、それでも反撃がすごかったようで、互いに多くの死傷者を出します。夕刻になりついに駿河勢は降伏。本陣に戻った信長は、多くの小姓や兵を失い涙したそうです。

 

25日、那古野に帰陣。その翌日、美濃へ帰国した安藤守就の報告を受けた道三は、「(信長は)恐るべき男だ。隣国には居てほしくない人物だな」と語ったそうです。 

 

 

■中市場の合戦

信長が家督を継いだ頃、清洲城は守護代の織田信友の居城でしたが、実質的には領主の坂井大膳が小守護代となっていました。そして、城内に作られた守護邸に守護の斯波義統が住んでいました。その斯波義統が清洲城を乗っ取ろうとしているという噂が以前からあり清洲の者は常に警戒していました。


7月12日、ついに事件が起きます。斯波義統の息子・岩龍丸(後の義銀)が川漁に出かけ、若い衆のほとんどがそのお供としてついていってしまいます。その隙を突いて、坂井大膳や河尻左馬丞・織田三位らが守護邸を襲撃。必死の防戦もむなしく、ついに守護・斯波義統は自刃に追い込まれます。


岩龍丸は川漁から大慌てで、那古野の信長の下へ逃げ込んできます。さらにもう一人の息子も毛利敦元が保護し無事、那古野城に送り届けられます。


18日、信長は柴田勝家に清洲攻めを命じます。ちなみにこの戦いに当時弓衆だった『信長公記』の著者・太田牛一も参戦しています。
清洲勢も山王口まで出陣してきますが、勝家勢は、長い槍を使い戦いを有利に進め、河尻左馬丞や織田三位など清洲勢の主だった者三十人ほどを討ち取り圧勝しました。しかし、清洲城を奪うまでにはいたりませんでした。この清洲攻めは、中市場の合戦と呼ばれます。

この頃、木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)が、信長に仕えるようになります。(諸説あり)。 

そして、この年、武田・北条・今川による三国同盟が成立。今川義元は本格的に織田攻めを始めます。