【信長史】1567 美濃平定

■滝川一益の北伊勢攻め

永禄10(1567)年、信長34歳。

信長がいつから北伊勢を攻め始めたかは残念ながら『信長公記』には記述がありませんが、『勢州軍記』という信憑性にややかける史料によれば、永禄10とされています。

 

この頃の伊勢は北部を神戸氏や長野氏・関氏などの国人衆が支配しており、南部を国司の北畠氏が支配している状況でした。
北伊勢攻略にあたり中心になって活躍したのが滝川一益のようです。

 

永禄10(1567)年4月、滝川一益の奉行が北伊勢の大福田寺宛に禁制(軍事規制の命令)を出しており、この時期すでに一部ですが、北伊勢を支配下においていたと思われます。美濃攻略が8月のことなので同時進行で北伊勢も攻めていたということになりますが、本格的に北伊勢攻略に乗り出すのは、翌年からなります。

 

 

■稲葉山城攻略

 岐阜城・天守
 岐阜城・天守

8月1日、斎藤家の重臣である美濃三人衆の稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全が織田方に寝返ることを決断します。

 

主君・斎藤龍興の無能さと織田方の軍事的圧力を背景にした調略で次々と離反が相次ぎ美濃三人衆は斎藤家を見限ったものと思われます。一説には道三が死の直前、美濃を娘婿である信長に譲るとした遺言書を残しておりこれを理由に信長につくことを決めたという話もあります。

いずれにしても三人は「信長に味方するので人質をお受け取りください」と申し入れてきます。これを受け信長は村井貞勝と島田秀順を人質を受け取りに行かせます。


この時、信長の戦の真髄とも言うべき“速攻”を見せます。人質がまだ到着していない状況の中、信長は美濃へ出陣します。稲葉山と連なる瑞竜寺山へ一気に駆け上ると稲葉山城下の町に次々火を放ちます。この日は風が強くあっという間に稲葉山城は裸城になってしまいます。突如現れた織田軍に斎藤方が混乱している間の出来事でした。
そして、稲葉山城の周りに鹿垣(柵)を作り包囲。ここに駆けつけた美濃三人衆は、状況を見て織田軍のすばやさに驚きながらも、信長に挨拶したようです。


15日、包囲されてから二週間、龍興はついに降伏を申し出ます。龍興は飛騨川(長良川)を船で下り伊勢の長島に退散します。


これにより信長は美濃国を制覇。居城を小牧山城から稲葉山城に移すと井口という地名を岐阜に改め、城名も岐阜城とします。その名の由来は、「周の文王が岐山によって、遂に天下を制した」という故事から天沢和尚が提案したそうです。


「美濃を制するものは天下を制す」

この時から信長は「天下布武」の印判を使い始めており、美濃を攻略したことにより本格的に天下統一を意識しはじめたのかもしれません。

天文16(1547)年に父・信秀が斎藤道三に大敗を喫してから20年後のことでした。


さて一方の龍興ですが、稲葉山落城のとき20歳。その後、三好三人衆と組み信長に抵抗しますが敗れ、ついで越前の朝倉義景の下で信長に抵抗。

天正元(1573)年8月14日、越前刀禰坂の戦いで討ち死にします。享年26歳、信長と戦い続ける生涯でした。

 

 

■浅井長政と市の婚姻

 お市
 お市

永禄8(1565)年、将軍足利義輝暗殺事件後、その弟である覚慶(のちの足利義昭)を救出していた和田惟政は覚慶を匿っていました。和田惟政は、六角氏の家臣でありながら将軍家にも仕える立場だったようです。のちに明智光秀が将軍足利義昭と信長に仕えたような状況でしょうか?

 

義輝が暗殺されたこの年12月、まだ尾張一国の大名だった信長は細川藤孝に書状を送り上洛の意思を示していました。それを知った藤孝らは永禄9(1566)3月、織田家と斎藤家の和睦を一度働きかけ成立したものの、三好氏や松永久秀らが斎藤龍興に働き掛け和睦は破たんしていました。

 

永禄9(1566)年には、和田惟政の主君である六角承貞の働きかけで北近江の浅井長政と信長の妹・市の結婚を提案したようです。近隣の大名が連携して足利義昭を将軍に推戴しようとしていたようです。しかし、この時は、長政が承諾しなかったようで婚姻・同盟話は流れてしまいます。

 

永禄10(1567)8月、近江の隣国である美濃を信長が制したことにより浅井家は方針を転換します。

 

9月29日、浅井長政は、美濃衆で早くから信長に従っていた市橋長利を通じて信長に同盟をもちかけます。信長はこれを受け入れ、お市を長政に嫁がせ同盟が成立します。ただ、この時、お市は21歳で当時としては遅すぎる結婚であり、この年、長女・茶々が生まれたたという説もあるため結婚は永禄6(1563)年だったのでは?という説もあります。この説が本当だとしたら美濃攻略のための同盟だった可能性も考えられます。

※茶々の誕生は永禄12(1569)年説が今のところ主流のようです。 

 

 

■嫡男・信忠と武田信玄の娘・松の婚約

この時期信長が最も恐れていたのが、甲斐・信濃を領する武田信玄でした。信濃は美濃と国境を接しており信玄と敵対することは何としても避けなければなりませんでした。

 

時期は不明ですが、おそらく美濃攻めを始めた頃からだと思いますが、信長は信玄に貢物を幾度となく送ります。信玄と友好関係を築き、美濃・斎藤氏に圧力をかける狙いもあったのかもしれません。


永禄8(1565)年11月13日、信玄の四男・勝頼に織田信長の養女・遠山夫人(遠山氏に嫁いだ妹の子・雪姫とも)が輿入れし、武田家との同盟が成立します。ちなみに遠山夫人が勝頼の嫡子・信勝を生みます。

 

永禄10(1567)年、美濃を攻略したこの年、今度は信長の嫡男・信忠と信玄の娘・松が婚約します。この時、信忠11歳、松姫7歳。のちに織田家と武田家が敵対することになり結局破談になってしまいますが、松姫は生涯結婚せず、本能寺の変で信忠が死ぬと出家して信松尼と称し武田家と信忠の供養を続けたそうです。

尚、一説には武田家滅亡後、しばらくして信忠の使者が松姫を迎えに行き信忠のもとへ向かう最中に本能寺の変が起きたともいわれています。また、信忠の嫡男・三法師(のちの秀信)は松姫が生んだという説もあるようです。

 

この年、伊達政宗・真田信繁(幸村)・立花宗茂・武田信勝ら猛将が多く誕生しています。

 

10月、武田信玄は長男・義信を自害させます。

11月、松永久秀が東大寺大仏殿を焼くという大事件が起きます。しかし、この大仏殿焼失は久秀が犯人ではなかったと考えられていますが、それはまた別の機会に。