【信長史】1575① 長篠・設楽原の合戦

■信長と今川氏真の会見

天正3(1575)年、信長42歳。

1月、信長は前年より計画していた領国内の道路の大規模な整備を命じます。奉行に任じられたのは、坂井利貞・高野藤蔵・篠岡八右衛門・山口太郎兵衛の四人。道の幅を三間半(約6m)に統一し、橋を架けたり、急坂を緩やかにするなど各地で工事が進められます。

 

2月中には大規模な整備にもかかわらず工事を終えています。織田家の経済力や信長の権威を近隣の諸大名・諸勢力・に示す効果もあったと思います。

既に信長の領国内では関所の撤廃も行われていたので、この工事によりさらに交通の便がよくなり商人や旅人など人の往来も盛んになり、領民の生活も安定したようです。


この道路整備は、経済発展の為はもちろんですが、いざ合戦という時に大軍勢がすばやく移動する為にも必要なことでした。しかし、逆に敵の間者(スパイ)も自由に行き来でき、さらに敵の軍勢も一気に織田領に攻め込むことができるということにもなりますが、この整備を進めたのは信長の自信の表れかもしれません。


2月27日、信長は、この工事の視察を終え(視察も兼ね?)京へ出発します。

 

29日、丹羽長秀の居城、近江・佐和山城に到着。


3月3日、京に到着した信長は相国寺を宿舎とします。


16日、その相国寺に桶狭間の合戦で討ち取った今川義元の嫡男・氏真(氏実)が挨拶に訪れます。当時38歳。氏真は帆布百反を献上します。二人はこのときが初対面ではなかったようで、その前にも氏真は、「千鳥の香炉」や「飯尾宋祇の香炉」を献上し、信長は「千鳥の香炉」のみ受け取ったということがあったようです。二人はどのような思いで会話したのかはわかりませんが、話が氏真の蹴鞠の話題になり、興味を持った信長がぜひ蹴鞠を見せて欲しいと頼みます。氏真はこれを了承。


20日、氏真は、相国寺にて蹴鞠の会を催します。参加者は氏真の蹴鞠の師と言われている飛鳥井雅教父子・三条西実枝父子・高倉永相父子他に広橋兼勝・五辻為仲・庭田重保・烏丸光康。信長は大変満足したようですが、見世物にされた氏真はどのような思いだったでしょうか?


ちなみに信長の父・信秀は天文2年(1533:信長誕生の前年)に飛鳥井雅教を招き蹴鞠や歌道の指導を受けたそうです。この一行には山科言継も同行していました。


余談ですが、氏真は父・義元死後約8年その遺領を守りますが家康や信玄の攻撃により流浪。北条氏康を頼り、その死後は一時家康のもとに身を寄せ、天正3(1575)年の長篠の合戦にも徳川配下と思われますが従軍していたそうです。そして、時期は不明ですが京に上り剃髪して宗誾(そうぎん)と名乗り、その後江戸に移り、慶長19(1615)年、大往生を遂げます。

 

 

■織田信忠vs武田勝頼、足助の攻防

3月28日、信長の嫡男・織田信忠は出羽介に就任します。この時、信忠19歳。同じ頃、武田勝頼が再び動き出します。狙いは武田方が占拠する美濃・明智城の南に位置する三河・足助城(別名・真弓山城、愛知県・足助町)の攻略と思われます。

 

足助城は武田信玄の死の直後、徳川家康の長男・松平(岡崎)三郎信康が武田方から奪還していた城。約2カ月後の5月に起こる長篠・設楽原の合戦場の北西に位置する城で、勝頼は長篠城攻略のための布石としてこの地を押さえるべく出陣したのかもしれません。


武田軍が足助方面に進出してきたことを知った信忠は尾張の軍勢を率いて出陣します。これは信長の命によるものだったと思われますが、『信長公記』を読む限り、これが信忠が総大将として初めて単独で出陣した戦いのようです。しかし、信忠が出陣してくると武田軍はあっさり軍を退いてしまいます。

 

結局、小競り合い程度の戦いもあったかは不明で、信忠としては肩透かしを食わされた格好になってしまいました。

 

4月1日、信長は困窮していた公家衆救済のため徳政令(債権・債務の破棄命令)を発布し、借金返済のため売却されていた公家領の回復を図っています。この処理は京都所司代・村井貞勝と丹羽長秀が担当し、朝廷や公家衆は大いに喜んだものと想像されます。

 


■三好康長の降服

4月6日、信長は自ら軍を率い出陣。その数10万ともいわれる大軍勢でした。目指すは石山本願寺。

 

8日、若江(東大阪市)に陣を構えると、三好康長(長慶の叔父)が籠もる高屋城の攻撃を命じます。城下町を焼き払うなどしているところへ三好方も出陣してきます。一進一退の攻防が続き、織田方にも多数の死傷者が出ます。しかし、織田の大軍を前に三好方は籠城を余儀なくされたようです。


駒ガ谷山(羽曳野市)から戦況を見つめていた信長は陣をこの地に移し、佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・塙直政(後の原田直政)に命じ、誉田八幡(羽曳野市)・道明寺河原(藤井寺市)方面へも攻撃を仕掛け、敵陣を撃破し麦畑を焼き払うなどします。


12日、住吉(大阪市住吉区)に陣を移すと14日にかけて、この地に10万近い兵力を集中させ各地の村や田畑を焼き払います。これにより石山本願寺に集まる農作物は激減することになります。


16日、三好方の主力である十河因幡守およびその一族と香西越後守らが立て籠もる新堀城を攻略するため遠里小野(大阪市住吉区)に陣を移し、周辺の田畑を焼き払います。


17日、信長自らも出陣し新堀城に攻撃を仕掛けます。


19日夜、信長は諸隊に総攻撃を命じ、火矢を打ち込み堀を草などで埋め立て次から次へ攻めかかります。織田軍の猛攻の前に十河因幡守・越中・左馬允を含む170余りの屈強の士が討ち死に。香西越後守は生け捕りにされ信長の下へ連れて行かれます。度重なる敵対に我慢ならなかった信長はその場で香西の首をはねます。


こうした状況に観念した高屋城の三好康長は松井友閑を通じて降伏を申し入れます。信長はこれを許し、その後、塙直政に命じ高屋城など河内の敵城は全て破却されます。


三好康長は、三好家の中心的人物で、依然四国にも勢力を持っている三好一党の支配も考え、信長は康長を許したようです。このように三好勢が一掃されてしまったため、石山本願寺の顕如は孤立していきます。


21日、石山本願寺の総攻撃を目前にしながら、信長は京に戻ってしまいます。表向きは、作戦終了による退却でしたが、実は徳川家より武田勝頼侵攻の知らせと援軍要請の書状が次々と信長の元へ届けられていたようです。


同じ頃、三河では武田勝頼率いる1万8000(1万5000とも)の兵が長篠城に迫っていました。

 

 

■長篠城包囲と鳥居強右衛門の活躍

 鳥居強右衛門
 鳥居強右衛門

4月12日、武田勝頼は、1万8000(1万5000とも)の兵を率い長篠城“奪還”のため出陣します。

 

5月1日、武田軍は奥平貞昌(後の信昌この時21歳)以下500人が守る長篠城を包囲します。この長篠城は、信玄健在のときは武田方の城でした。当時の城主は、奥平貞昌の父・貞能。信玄が死ぬとその情報は秘密にされていたもののすぐに近隣に知れ渡ることになります。“信玄死す”の情報を得た徳川家康は駿河に攻め込み5ヵ月後、娘を信昌に嫁がせると約束し、奥平貞能・貞昌父子を寝返らせていました。


勝頼は、その長篠城奪還のため、その南を流れる大野川の対岸の鳶ヶ巣山に砦を築き叔父の武田信実を配します。鳶ヶ巣山以外にもいくつか砦を築いていたようです。


家康はこのような状況で、単独で長篠城を救出することは不可能と判断し信長に援軍を要請します。家康から救援要請を受けた信長は、配下の武将から鉄砲衆を少しずつ引き抜き、1000~1500挺ほどの鉄砲を用意します。


6日、勝頼は家康が動かないと判断し、長篠城を包囲しつつその南西に位置する二連木城(豊橋市)と牛久保城(豊川市)にも攻撃を仕掛ける両城を攻略。吉田城にも迫りますが徳川軍は反撃に転じ、勝頼は兵を長篠城に戻します。


11日、勝頼は長篠城の攻撃を本格化させます。


13日、軍備の整った織田信長・信忠父子は3万近い軍勢を率い出陣。その日は熱田に陣を張ります。


14日、信長は岡崎城に到着し家康と合流。この日、奥平貞昌は武田軍の攻撃をかろうじて防いでいましたが、城兵の士気は徐々に下がってきていました。兵糧もほとんどなくなり城兵は城の堀のタニシを食べて飢えをしのいだとも伝わります。

 

そのような状況で限界が近付いていると感じた貞昌は家康に使者を送ることにします。しかし、城外には1万を超える武田軍がいてとても抜け出せる状況ではなく、死ぬ確率が高い使者役にに名乗り出るものがいませんでした。そんな中、鳥居強右衛門勝商(当時36歳?)が名乗りを上げます。強右衛門は水泳が得意だったともいわれ、その夜、暗闇の中を城の北側を流れる寒狭川の急流に潜り決死の脱出を成功させます。


強右衛門は城の危機を信長と家康に伝え救援の確証を得ます。この吉報を一刻も早く城内の仲間にに伝えたいと考えた強右衛門は休むことなく城に戻ることにします。しかし、途中武田軍に捕まってしまいます。武田軍は、強右衛門に「援軍は来ない」と城兵に伝えれば命は助けると約束したようです。そして、長篠城の目の前に磔にされた強右衛門は、城兵に向かって叫びます。「間もなくお味方の大軍が到着!」城内は、歓喜に包まれますが、強右衛門は即殺されてしまいます。


この強右衛門の活躍で、籠城をあきらめかけていた奥平貞昌ら城兵は再び士気を取り戻し、織田・徳川の援軍到着まで長篠城を守りぬくことに成功します。

 

 

■陣城構築と酒井忠次別働隊の出撃

 酒井忠次
 酒井忠次

5月15日、この日も信長は岡崎に留まり家康と戦略を練っていたようです。

 

16日、牛久保(豊川市)、17日、野田原(新城市)と軍を進め、18日、信長は志多羅(設楽)の極楽寺山へ布陣。信忠は、新御堂山に布陣。3万近い軍勢を武田方から目に付きにくい窪地に配置。


地理に明るい家康は先陣として最前線の高松山に布陣。その数8000。そのすぐ近く南側には家康の叔父・水野信元と佐久間信盛が布陣。高松山の麓、設楽原(有海原:あるみはら)に滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀が布陣。


対する武田勝頼は鳶ヶ巣山砦や長篠城の包囲に3000ほどの兵を残すと1万5000の兵を率い長篠城近くの医王寺から連吾川を挟んで西の有海原近くに本陣を移し、その他の甲斐・信濃衆や西上野の小幡勢や駿河勢、遠江勢、武田に付いた三河勢を13箇所に分けて布陣します。


布陣を終えた織田・徳川連合軍と武田軍の距離はわずかに二十町(2.2km)。両軍が激突したのが21日ということを考えると、18日~開戦直前のわずか3日程の間に織田・徳川連合軍は、馬防柵を築き、堀を掘り、土塁をつくったことになります。これは「野戦築城」とよばれ、一種の城のようなものでした。信長が14日に岡崎に到着しながらその後ゆっくりと進軍したのは陣城の完成を待っていたためでしょうか?


勝頼もこれを「陣城」と認識していたようですが、窪地に潜んでいる織田軍の兵を確認できていなかったようで連合軍が4万近い兵力とは思わず。織田・徳川は武田軍を恐れ守りを固めていると考えていたようです。


信長は思いのほか近くまで進軍してきた武田軍の布陣を見て“天の恵み”と考え、如何にして武田軍を自陣に引き付けるか思案します。
妙案を思いついた信長は、徳川の重臣・酒井忠次を呼び出します。そして、酒井忠次を大将として徳川軍の弓や鉄砲の巧みなもの2000人を集め、これに織田軍から500挺の鉄砲を持った馬廻り衆を付け、さらに金森長近や佐藤正秋らの検視などを含めた合計4000の別働隊を編成します。


5月20日、戌の刻(午後8時)、こう着状態が続く中、ついに織田・徳川連合軍が動き出します。酒井忠次率いる別働隊が暗闇に紛れ出陣。目指すは長篠城を見下ろす位置にある勝頼の叔父・武田信実が守る鳶ヶ巣山砦でした。

 

 

■長篠・設楽原合戦での武田軍の大敗北

 長篠合戦図屏風(部分)
 長篠合戦図屏風(部分)

5月20日戌の刻(午後8時)、出陣した酒井忠次率いる別働隊は21日辰の刻(午前8時)武田方の鳶ヶ巣山砦を急襲。鬨の声を上げ鉄砲を撃ちかけます。武田信実率いる武田軍は大混乱に陥り、長篠城を包囲していた軍も総崩れとなります。長篠城に籠城していた兵たちも城外に打って出て、武田軍に攻めかかり武田方の砦を焼き払い周辺を征圧。この地を守っていた武田軍は鳳来寺に退却します。

 

このころ本陣を極楽寺山から家康の布陣する高松山へ移していた信長は、次の作戦を指示していました。命令があるまでは決して動かないよう全軍に指示し、佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・原田直政を指揮官とした1000挺の鉄砲隊を編成します。信長は足軽隊を出陣させ、武田軍を挑発します。


鳶ヶ巣山砦の長篠城包囲軍が敗れ、挟み撃ちされる形になった勝頼は重臣が退却を主張するも、強引に突撃を命じます。説得をあきらめた重臣たちは覚悟を決めつぎつぎと織田・徳川連合軍に攻めかかります。


先陣・山県昌景は攻め太鼓を打ち鳴らしながら突撃してきますが次々打ちかけてくる鉄砲隊の攻撃に抗しきれず退却。


二番手の武田逍遥軒信廉(勝頼の叔父)も攻めては引きを繰り返しながらも、鉄砲隊により半数以上を討ち取られ退却。


騎馬戦を得意とした赤い具足で統一された小幡信貞隊も突撃してきますがこれも鉄砲隊の餌食となり退却を余儀なくされます。


黒備えの武田信豊(勝頼の従兄弟)の部隊も次々と討ち取られ退却。

 

未の刻(午後2時)ごろまで激戦はつづき各方面で敗れた武田の将兵は勝頼のいる本陣へ逃げ込んできます。勝頼は、ついに退却を決意。鳳来寺へ敗走します。


信長は追撃を命じ、武田軍に猛攻を加えます。長篠城の兵もこの追撃戦に加わります。


この敗戦の中見事な討ち死にを遂げたのが武田家譜代の重臣・馬場信春(信房)でした。他の武将同様やはり配下の兵を多く討ち取られ本陣に退却してきますが、勝頼を退却させると再び戦場に戻り織田・徳川連合軍に突撃。武田家の最後の意地を見せ奮戦し討ち死にします。


馬場信春以外に、この合戦で討ち死にした主な武田家臣は、山県昌景・小幡信貞・横田備中綱松・真田信綱・真田昌輝・土屋宗蔵・甘利吉利等々。

『信長公記』を読む限り、各武将が討ち死にしたのが突撃時なのか、退却時なのかはっきりしませんでしたが、勝頼は数千の兵と多くの重臣を失い、武田家は衰退の一途をたどることになります。